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[92767]2017年3月31日
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[92742]2017年3月11日
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[92736]2017年3月7日
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[92728]2017年2月26日
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[92702]2017年2月12日
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[92668]2017年1月31日
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[92091]2016年12月12日
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[92071]2016年12月9日
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[91887]2016年10月30日
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[91883]2016年10月30日
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[91804]2016年10月22日
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[91784]2016年10月19日
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[91563]2016年10月4日
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[91562]2016年10月4日
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[91561]2016年10月4日
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[91515]2016年9月26日
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[91507]2016年9月25日
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[91442]2016年9月20日
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[91406]2016年9月16日
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[91405]2016年9月16日
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[91353]2016年9月7日
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[91282]2016年8月27日
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[91103]2016年8月5日
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[90716]2016年7月22日
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[90688]2016年7月12日
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[90660]2016年6月30日
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[90657]2016年6月29日
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[93634] 2017年 9月 1日(金)14:47:25hmt さん
政令指定古都・斑鳩町
[93596] 全角2文字 さん
ご承知のように、この辺の生駒郡4町+北葛城郡3町で広域合併を行おうとしていたのですが、斑鳩町と王寺町が…反対し、…この話はご破算、となってしまいました。

法隆寺がある町に住む中学2年生[91244]という自己紹介をしていただいたのは、1年前の夏休みでした。
私も、中学2年生時代のこと[93581]を書く機会が近頃ありましたが、それはなんと 70年前のことでした。

それはさておき、これを機会に、落書き帳で「斑鳩町」の過去記事を調べてみる気になりましたが、以前は簡単に検索できた全記事対象検索が 大きな負荷要因とされ、現在はできません。[93345]
ブツブツ言いながら地図を眺めていたら、[21047]と書き込んだメモが目に留まりました。この番号を頼りに落書き帳を開いてみるとTN さんの記事で、大津市が全国で10番目の古都保存法指定市町村になったことを伝える内容でした。

実は、「古都保存法」については殆んど知りませんでした。正式名称は昭和41年法律第1号 古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法です。
後代の国民に継承されるべき古都における歴史的風土を保存するために 1966年に公布されたこの法律。
立法の背景にあったもの。それは 京都タワー建設計画、奈良県庁舎建設計画、鎌倉の八幡宮裏山宅地造成計画、京都双ヶ岡のホテル建設計画などによる 歴史的環境の破壊が社会問題化したこと でした【世界大百科事典】。

法律に具体的に記されている「古都」は 上記の時代背景にも登場した 京都市、奈良市、鎌倉市 だけでしたが、これに「政令で定めるその他の市町村」が加えられています。

古都保存法に基づく「政令指定市町村」とはどこか?
上記法律の施行令とは別に、古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法第二条第一項の市町村を定める政令があり
古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法第二条第一項の政令で定める市町村は、天理市、橿原市、桜井市、奈良県生駒郡斑鳩町、同県高市郡明日香村、逗子市及び大津市とする。
と記されていました。

詳しく言うと、昭和41年7月4日の政令第232号に記されていたのは奈良県の5市町村で、逗子市は平成12年政令第4号、大津市は平成15年政令第456号で追加されたものでした。
[21047]は、法定3市(京都 奈良 鎌倉)に政令指定7市町村を加えた 10市町村になった時でした。

最も多数を占める奈良県のサイトから、奈良県の歴史的風土の保存 というページをリンクしておきます。

余談:
ご存知「政令指定都市」もどきの名「政令指定古都」を 勝手にタイトルに使いました。
でも、地方自治法第二百五十二条の十九第一項の指定都市の指定に関する政令には、1956年指定の旧五大都市に続いて、1963年以降に追加された15市が 区別なしに並んでいます。
一方、政令指定古都のリストは 法定3市を含まず、追加7市町村のみ。少し様子が違います。
[93622] 2017年 8月 31日(木)18:02:25【1】hmt さん
昭和の大合併
[93619] Takashi さん
落書き帳メンバーの中で、昭和の大合併当時に生きていた少数派でもあり、少し発言しておきます。

出身地については、昭和30年の合併で 本籍地の表記が変更されました。
しかし、「実生活への影響は 殆んどなかった」と言って良いでしょう。
昭和合併当時の私【学生→新卒】の居住地については、合併と無関係でした。

数十年を経過。落書き帳のメンバーになってから、現在の居住地が 昭和合併を経験した村 であることを知りました。
そして 2006年、埼玉県入間郡富士見村誕生から50年ということで 地元の資料館で 展示会が開かれました。
それを機会に記した記事[55364]があります。先ず これを紹介します。

私自身は全くの別世界で暮らしていたのですが、昭和合併当時の実情が少しは推察できると思います。

「昭和合併」が実行された最初のきっかけは、1949年に占領軍から出された「シャウプ勧告」でした。
その基本理念は、国と地方公共団体の間の事務の再配分を実現した上で、地方公共団体の財政を強化することにありました。

国力の衰えた敗戦国・日本の自治体にとり、1947年度発足の義務教育延長(6+3制)は大きな負担でした。
市および人口5000人以上の市街的町村は、公安委員会や自治体警察も負担することになりました。
(警察制度については、1951年から1955年にかけての改正で現行制度に移行。)

時代は異なるが、豊玉小学校[59567]や 越県合併までした大泉村[62334]の時代から、学校経営の費用で地元は苦労していました。

とにかく、小さな町村では財政のやり繰りが大変です。
合理的な自治体運営を可能にする適正規模「人口8000人」の実現。これが昭和合併の大目標でした。

でも 実務となると、どのような組合せで合併するのか 議論百出。その一例を紹介してあります。
埼玉県入間郡の鶴瀬ブロックは 県の試案5村に始まり、福岡村を加えた6村となるも反りが合わず。鶴瀬は南畑の他に水谷も抱き込み、三芳とも交渉。しかし、土壇場に近く登場した 三芳・鶴瀬両村長の名による「誓約書」(の案?)も実らず、「町村合併促進法」最終期限 1956/9/30 の3村合併による 富士見村へ。


そして 別の記事[55377]では、町村合併促進法の枠から外れた後の 三芳村を記しています。

「新市町村建設促進法」に基づく県知事の合併勧告は返上。
上富地区は所沢市への編入を望んでおり、分村の結果として三芳村消滅か?という危機もありました。
しかし、1959年に至り 分村合併取消議案が可決され、三芳村の昭和合併騒動は ようやく白紙に戻りました。

1960年代になると独立の道を守った三芳村に追い風。工場や倉庫の進出で農村の風景が変りはじめました。
余談:今年2月の火災で話題になったアスクルの物流倉庫も三芳町所在。但しこの倉庫は、近年のものでした。

いずれにせよ、昭和合併が目標にした「人口8000人規模」は、合併することなく実現しました。
1977年には最寄りの東上線「みずほ台駅」【町内ではない】も開業し、団地もできています。

埼玉県入間郡三芳町は、財政力指数が1を超える豊かな自治体であり[80514]、昼間人口比率の低い富士見市からの人口流出先[90619]などの落書き帳記事もあります。

昭和合併により人口だけは増えて、1972年から「市」という看板を掲げている富士見市。
昭和合併を拒んだ結果、未だに「郡部」ですが、自治体としての実質は 隣接する「市」よりも上位にある三芳町。

落書き帳の記事を紹介し、昭和合併で異なる対応をした2つの村の現状を見比べてしまいました。
[93581] 2017年 8月 27日(日)17:22:52hmt さん
「明治節」から「文化の日」へ
[93568] デスクトップ鉄さん
武蔵野市の市制施行は、1947年11月3日。(中略)hmtさん、この日学校が休みだったか、記憶にありませんか。

6・3制発足の昭和22年度は 「(旧制)中等学校併設(新制)中学校」という奇妙な学校[22066]の2年生でした。
その年の 11月3日については、残念ながら定かな記憶が残っていません。
下記のように、制度上は 休日である「明治節」が存在したことは確かです。
しかし、学校では 敗戦前のような式典があったのか? その考察は後回しにします…

[93571] グリグリ さん
戦前の祝祭日を規定した「休日ニ関スル件」の勅令廃止のタイミングを念のためネットでいろいろ調べてみましたが、確実なところはわからないのですが、昭和23年に入ってからのようですね。

日本国憲法は、第二次大戦が終った翌年の昭和21年(1946)11月3日【明治節の日】に公布され、半年後の昭和22年(1947)5月3日に施行されました。
これが国民の祝日・憲法記念日の由来ですが、11月3日も国民の祝日・文化の日になっています。
日本国憲法の中で使われた「文化」という言葉は1ヶ所だけ(第二十五条)ですが、戦争放棄・主権在民・基本的人権を宣言した日本国憲法の目指した国つくりの基本理念は 平和と文化 にあり、それ故に公布の日を「文化の日」にしたと思われます。

日本国憲法が施行された翌年、昭和23年の官報に掲載された 昭和23年法律第178号 国民の祝日に関する法律を示します。
1948/7/20 公布当時の 祝日は、僅かに年間9日でしたが、第二条には次のような趣旨が記されています。
文化の日 11月3日 自由と平和を愛し、文化をすすめる。

第三条に 「国民の祝日」は休日とする。…従来の勅令と同様に、政府機関の休日という意味でしょう。
続く附則の2には、「昭和二年勅令第二十五号は、これを廃止する。」とあります。
これにより、昭和2年の勅令で定められていた「明治節」は 1948/7/20 に廃止されたと判明します。

順序が逆になりますが、11月3日の「明治節」が新設された 昭和2年勅令第25号 休日に関する件改正を示しておきます。

この時の改正内容について:
天皇の代替わりに伴う改正ですから、当然のことながら天長節の日付変更。
先帝祭【先代天皇の命日を祭る】が 明治天皇祭から大正天皇祭になり、日付も変更。
そして明治節の新設。日本の近代化を進めた明治天皇の遺徳を 明治天皇祭廃止後も継続させるため。
ほぼ同じ季節に存在した天長節祝日#(10/31)の廃止で、休日数 12 は変化せず。

明治天皇の誕生は、当時使われていた天保暦の嘉永5年9月22日でしたが、明治6年以降使われているグレゴリオ暦に換算して「天長節」は 11月3日とされました。この日は 明治時代から「晴天の特異日」として知られていました。

代替わりした大正時代。前の天皇を偲ぶ日は、命日・7月30日の明治天皇祭になりました。
大正元年勅令第19号 休日に関する件を見ると、入れ違いに廃止された旧規定は、明治6年太政官布告第344号であり、天長節11/3、孝明天皇祭1/30など若干の変更はあるものの、明治初年以来ほぼ同内容の規定であったことが知れます。なお、明治5年以前のできごとに関わる日付、例えば紀元節[49122]は、すべてグレゴリオ暦換算です。

# 大正時代には、天長節の盛暑を避けた2月後遅れの天長節祝日という休日が存在しました。Wikipedia

それはともかくとして、「四大節」の一つと数えていた1月1日(四方拝)。
大正元年と昭和2年の勅令「休日に関する件」の記載に基づけば、この日は【S23年までずっと】休日でなかった!

この衝撃的な情報は、私にとって初耳でした。象徴天皇になった現在はともかく、国家元首だった時代の天皇にとり、正月元日は伊勢神宮を始めとする天下四方の神々へのご挨拶から始まる「仕事始めの日」であり、「休日ではない」ことを思い知りました。

武蔵野市を追加[93571]していただいたリストですが、四方拝の日に市制施行した5市をどのように扱うのか。
千葉市1921, 足利市1921, 直方市1931, 高槻市1943, 新発田市1947。

現代の常識からすれば、「休日に市制施行した市」 と考えるのが自然であるように思われます。
勅令には従っていませんが、現在のままで良いと思うのですが、いかがでしょうか?

後回しにした、70年前の 11月3日。学校での明治節式典について。
「旗日」という言葉も生き残っていた時代ですが、「日の丸」を掲げたり「君が代」を歌うのには、若干の憚りが感じられる雰囲気もあった OCCUPIED JAPAN でした。
式典など行なわず、「ただの休日」として、無難に過ごしていたのかもしれません。
[93101] 2017年 8月 11日(金)17:02:48hmt さん
手賀沼の干拓
込み入った隣接関係の話題・根戸新田[93095]は 手賀沼西端でしたが、マピオン 14スケール図で もっと広い範囲を見ているうちに、手賀沼の東側が気になりました。

画面の右半分に整然と並んだ耕地割。昔は利根川水運[1643]で賑わった布佐[65861]付近迄続く、広大な沼だったことがわかります。
柏市東端付近・浦部村新田にある手賀沼の文字も、広かった沼の名残を示しています。

明治10年代のフランス式迅速測図に基づく歴史的農業環境閲覧システム[65097]によって、布佐付近まで広がっていた頃の手賀沼を確認することができます。

千葉県東葛農業事務所>土地改良の歴史の中に 「手賀沼干拓の歴史」があり、小さいが新旧地図が掲載されていました。

そのページによると、手賀沼干拓は 江戸時代から何度も 挑戦の歴史がありました。かいつまんで記すと…

享保4年(1729)には 井沢弥惣兵衛[67664]の指導による工事が完成。千間堤を築いて下沼と上沼を分けて別々に排水して下沼に新田を作ったが、洪水で千間堤が決壊し、完成から10年で失敗に終る。
田沼意次による工事の効果も大きく、手賀沼新田は復興の兆しを見せたが、これも未完成のまま中止。

明治以降も再三の計画が着手に至らず、洪水の被害は深刻。
第2次世界大戦後の深刻な食糧危機から、農林省直轄工事で本格的な干拓が始まり、手賀沼の東部分を干拓して 435haの農地がつくられました。西に残る水域650ha(上沼)は貯水池化し用水を確保、25km2を灌漑。
この事業は、昭和43(1978)年に完成しました。

戦前の地図帳を見ると 手賀沼は面積 12km2で、「主なる湖沼」の一角に位置していました。
ところが、現在の調査実施湖沼一覧には 手賀沼が 掲載されていません。
しかし、東半分の干拓により生まれた耕地と、農業用貯水池として残った西半分の手賀沼とは、我が国の乏しい食料自給源としての役割を 立派に果しているのでした。

おまけ
少し下流の印旛沼の地図です。手賀沼より大きいので、13スケールで示します。
干拓により分断された現在の印旛沼
明治時代の印旛沼

もちろん、印旛沼干拓についても、江戸時代から戦後まで、干拓の歴史が積み重ねられています。
[93095] 2017年 8月 10日(木)12:42:57【1】hmt さん
手賀沼西端の 根戸新田
[93091] 通りすがりさん
4
飛び地コレクションの中に、グレートジャンクションもどきがありました。
関係市町村は柏市、我孫子市、柏市、我孫子市です。
マピオン

示された場所は、北柏ふるさと公園の一部、30m四方ほどの小さな土地で、手賀沼西端の埋立地のようです。
公園は その名が示すように 大部分は柏市なのですが、この小さな土地だけが 我孫子市根戸新田となっており、2点で点接触しているのですが一応は我孫子市の飛び地です。
しかもその東に100mほど伸びる細長い土地は 柏市根戸新田(の2点接触飛地)。
地図を見ながらでないと 言葉で説明しても判り難い 奇妙な隣接関係です。

我孫子市も柏市も 母体(点隣接)飛び地(点隣接)母体 という関係なので、4自治体が関係する普通の点隣接と違い、関係自治体は2市だけとなっており、面積と共に「グレート」とは程遠い「ジャンクション」です。こんな市町村境があることは初めて知りました。

この小さな場所に、2点の「グレートジャンクションもどき」だけでなく、「飛び地」や 「自治体越えの地名」【注】までも盛り込まれた複雑な土地です。

【注】我孫子市根戸新田/柏市根戸新田
参考までに、近くの呼塚新田(よばつかしんでん)は[87252]で情報提供され、コレクション収録済みです。

複雑な隣接関係になった由来を解明することはできませんでしたが、合併時の住民意向が関係したようです。
参考ページを紹介しておきます。

(手賀沼を)干拓し埋め立てたのが「根戸新田」。だから、柏市(にも根戸新田、あります。ここら辺は、合併時に地区毎の投票で柏市に付くか、我孫子市に着くか決めたところですので、飛び地があったり、市境が入り組んでいたり…)に接するところから、我孫子駅から下って来る手賀沼公園のところまで、全部「根戸新田」。
[93088] 2017年 8月 8日(火)16:05:11【1】hmt さん
なぜ「グレート」なのか
[93085]の問いかけに関して、[93084]の検索結果よりも更に古い記事に求めた[93086]
その方向は正しいのですが…
「検索範囲」を「全記事」にするだけでなく、「検索順序」にも配慮する方がよかったのです。

表示件数はともかくとして、このサイトで話題になった古い記事の調査ですから、先ずは「検索順序」を「古い記事から」に変えて検索しましょう。
「グレートジャンクション」という言葉が、落書き帳に最初に登場した 2004年の記事が出てきます。

[23953] みやこ♂[みやこ] さん 日本のグレートジャンクション
アメリカには「グレートジャンクション」というのがあって,両手両足で4つの州を股にかける(?)ことができるそうですが,県レベルでは我が国にはありませんよね。(中略)
ところでこれを市町村まで広げたらどうなんでしょう。どこかに4つ以上の市町村が交叉しているポイントってないのでしょうか。(中略)個人的には,「北海道の後方羊蹄山頂がそうだ!」と睨んでいるのですが。

アメリカの「フォーコーナーズ」[11033]に類似した 特異的境界点 なのですが、「グレートジャンクション」は
日本の市町村境界における用例として、このサイト内で すっかり定着している言葉 なのです。
そのように ご承知ください。

【追記】
[93086]の検索結果は新しい方から10件だけが表示されているので、見掛けは[93084]の結果とあまり変りません。
しかし、末尾の指示に従って「次の50件」を検索すれば、「全記事」から抽出された多数記事の末尾に上記[23953]が現れます。
この点が、範囲7000番以降で検索した[93084]と違っており、「貼り直し」は全く無意味ではなかったのでした。
[93080] 2017年 8月 6日(日)17:49:59hmt さん
遠距離通勤
白桃さんの全国的視野に立つ「広域都市圏設定」[93066]と直接の関係があるわけではありませんが、
2015年国勢調査の就業・就学者のデータ
を使えば、遠距離通勤の一端を知ることができるのではないかと考え、とりあえず埼玉県のデータを眺めてみました。
平成27年国勢調査 従業地・通学地による人口・就業状態等集計 00302_11.csv

埼玉県に常住する就業者・通学者 3858637人【100%とする】。 この内、自宅を含む自市区町村で従業・通学するのは 1394941【36.2%】であり、他市区町村への通勤通学 2256143【58.5%】の方がずっと多いようです。
両者を加えた自他市区町村合計が常住従業通学者数にも合わないのは、従業地・通学地「不詳」が 207553【5.4%】もいるため。
「仕事先の市区町村」を問われて、外国出張中の場合「答えられない」のは当然ですが、国内であっても 家族が従業地を答えられない場合が 意外に多数あるようです。

通勤通学距離の判定には直結しませんが、埼玉県内の他市区町村 1049615と、他県 1066918とは ほぼ同数。
これは、930050【24.1% 埼玉県常住就業通学者数に対する%、以下同じ】と圧倒的な通勤通学者数を占める東京都 に隣接する 埼玉県ならではの特徴でしょう。

東京都に次ぐのは千葉県42850【1.1%】、群馬県【0.8%】、神奈川県28067【0.7%】で、やはり隣接県優勢。
その先は茨城県【0.37%】栃木県【0.26%】で、遠距離通勤と言っても この辺が限度なのでしょう。
通勤の実態があるかどうか疑わしい点もありますが、一応 0.1%未満0.01%以上の数値が出た県を多い順に並べておきます。
福島県【0.03】愛知県【0.03】大阪府【0.03】宮城県【0.03】静岡県【0.03】長野県【0.02】新潟県【0.02】山梨県【0.02】北海道【0.01】福岡県【0.01】

県単位のデータだとこんな結果でしたが、市町村単位ならば、もっと詳しい様子を知ることもできます。
例えば富士見市常住就業通学者数 57680【以下これを100%とする】を対象にすると、富士見市内での就業通学者は僅かに 13883【24%】であり、自治体内での就業通学は埼玉県全体よりも更に低下しています。これは、就職先・通学先が市内に整えられていない住居地域であることを物語っています。

…で、就業通学の受入先を見ると予想通り東京都17950【31.1%】が圧倒的です。特別区【28.9%】の中では池袋のある豊島区【4.0%】がトップであり、千代田区・新宿区・板橋区・港区・渋谷区・中央区と続く姿からは、鉄道の威力が見えます。

タイトルの遠距離通勤からは離れますが、巨大な東京特別区の存在は別格として、近隣市町への就業通学状況を見ると、入間郡三芳町【6.34%】が川越市【5.0%】・ふじみ野市【3.9%】を抑えて首位になっていることが注目されます。これに続くのは新座市・朝霞市・志木市・所沢市で 2.8%~2.1%の範囲。

三芳町については、財政力指数で注目していた[80514]だけでなく、昼間人口比率の低い富士見市からの流出先としても記事になっていました[90619]
「市」という看板こそ名乗っていませんが、自治体としてのランクは 上位にあると評価しています。
[93077] 2017年 8月 4日(金)20:44:46【1】hmt さん
町を母体とする村(3)北海道釧路村のケース
[93051] hmt 神奈川県高座郡渋谷村のケースでは、取り留めのない状態で長文を記し、失礼しました。
変更種別の詳細説明に記されている現在の定義には合っている。
としながらも、
渋谷町廃止なのに「分立」とは、言葉として違和感があるのではないか? 
という疑問を捨てきれず、「変更種別についての考えは迷走状態」を続けてしまいました。ところが…

[93065] グリグリさん
町から同一名の村が分立した例として、C.(4)【誤記】 8の釧路村と33の渋谷村があります。
を見たことを契機に、「C.(3) 町からの分立で村」に収録されている事例 1920/7/1「釧路町→釧路区と釧路村」の当時の記録を、1980年に町の名を取り戻した釧路町のサイトによって調査することにしました。

釧路町のあゆみに収録されていた 北海道庁告示大正9年第447号
-----------
釧路郡釧路町ヲ分割シ2級町村トシテ釧路村ヲ置キ大正9年7月1日ヨリ施行ス
其ノ境界左ノ如シ【引用省略】但シ区域図ハ関係町村役場ニ置ク
大正9年6月27日
北海道庁長官 佐上信一
-----------

釧路市の参考資料では、分割で釧路村が置かれたのを大正9年6月27日としていましたが、これは誤って告示日を記したものであり、施行日は大正9年7月1日、つまり 釧路に 北海道区制(明治30年勅令第158号)[74376]が施行されたのと 同日です。

余談ですが、釧路区発足日について:
最初に行なった変遷情報検索にミス【デフォルトにない「区制」を入れ忘れ】があったので、念のために原典の 大正9年6月24日内務省告示第52号も確認しました。
北海道区制第3条に依り大正9年7月1日より北海道釧路郡釧路町を釧路区と為す
大正9年6月24日 内務大臣 床次竹二郎

本筋に戻ります。
釧路村を置く告示文には、「分立」でなく 「分割」と明記してありました。
こちらのサイトの変遷情報では「分立」となっているのですが、変更種別の詳細説明の「分割」は
ある市町村を廃止し、その区域を分けて二以上の市町村を置くこと
ですから、釧路区も市町村の同類であるとと拡大解釈すれば、変遷情報における この説明に合いそうです。

一方、分立の説明には「ある市町村の区域の一部を分け」という言葉を使い、この説明にも合いそうです。

このように紛らわしい「分割と分立」をどのように使い分けるのか?
釧路のケースについて言えば、告示文に従い「分割」としたいところです。

基本姿勢としては、母体と分体とが「同時に存在」した時期があれば「分立」、なければ「分割」でしょう。
グリグリさんも、この姿勢に基づき、【瞬間的にせよ】同時に存在した可能性を考えて、[93065]では
釧路町/釧路村、渋谷町/渋谷村が同時に存在しました。
渋谷町から渋谷村が分立し、同日に渋谷町は藤沢市に編入されたという現在の分類が一番分かり易くすっきりしていると思いました。
としたのだと思われます。

しかし、告示文で「分割」と明記された釧路の事例を前にすると、瞬間的同時存在説を信じてよいのかどうか迷います。
類似する高座渋谷の事例。こちらに「分割」の可能性はないか? …と もう一度粘ってみます。

[32467] Issie さん
1955年4月に 神奈川県高座郡渋谷町 が「分割」されて,北半分が「高座郡渋谷村」という“新しい”自治体に,南半分が藤沢市に編入される,というできごとがありました。
という記載は、分立・分割の厳密な区別を意識したものではないかもしれませんが、事実上は「分割」であるという見方を正直に伝えています。

もちろん、母体の行先は釧路区設置と違い藤沢市への編入ですから、同日に効力が発生する2件の告示[32478]であっても、「二以上の市町村を置くこと」には該当しません。だから釧路村が「分割」であっても、渋谷村は「分立」。
そう言われれば、引き下がる他ありません。

やはり母体の長後地区でさえも自治体としての地位を失った高座郡渋谷町は、分割に値せず……ということか。

変遷情報に関して、有益な追加情報の記事番号を追記することは [80446]で提案され、最近も その事例があります[93064]
話題になった変遷の告示文を紹介した[32478]やこの記事の番号も、変遷情報への追記により、その信頼性確保に役立つことと思われます。今回の事例で告示文の重要性を感じた機会に、一言付け加えました。
[93067] 2017年 8月 2日(水)20:37:38hmt さん
「山冠に品」という文字 = 山にあるゴツゴツと角張った大きな岩
[93061] 通りすがり さん
大蛇ぐら(奈良県吉野郡上北山村)
くらは山冠に品です。表示できないみたいです。

この落書き帳の中で、稀少地名漢字リストというサイトが紹介されています。関係記事

奈良県を開いてみます。「山冠に品」という文字【注】は後半に出ており、 [JIS第3水準], Unicode: 5D53 であることと共に、多数の用例も示されています。
【注】以下 落書き帳の文中では この字を [山/品] と表記します。読みは 連濁「グラ」が多数。

リンク先の大部分は地理院地図であり、その中から主な「○○[山/品]」地名を拾ってみます。

大台ヶ原山関係
日出ヶ岳の西方、熊野川の源流に臨む岸壁に千石[山/品]・蒸篭[山/品]・大蛇[山/品]が並んでいます。
地理院地図では山頂を「日出ヶ岳」とし、「大台ヶ原山」は 「原」を意識した意味で使われています。

マピオンの表記は、山頂に「大台ヶ原山」を使い、「大台ヶ原」は もっと広い山塊に使っているようです。千石ぐら・蒸篭(せいろ)ぐらの表示はあるものの、何故か大蛇(だいじゃ)ぐらは無視されています。

分水嶺を越えた三重県の大杉谷には宮川が流れ、平等[山/品]・大日[山/品]・そして宮川ダムより下流に天狗[山/品]。
余談ですが、大台ケ原ドライブウェイの北側・川上村は紀伊水道に注ぐ紀の川水系。まさに近畿の屋根です。

東日本にも[山/品]地名があります。尾瀬の燧ヶ岳(福島県檜枝岐村)には俎[山/品]と柴安[山/品]。
少し離れますが群馬・新潟県境を関越トンネルが抜ける上には尾瀬と同名の俎(まないた)[山/品]。

【クラ/連濁でグラ】という訓読みの由来は知りません。
しかし、この文字の意味するところは「山にある角張った(品)大きな岩塊・岩壁(いわお=巌)」でしょう。
元々「岩」は「巌」の俗字であったとも言われます。「山」と「品」との組合せなら、上下どちらでも同字です。
地名に使われるのは「山/品」ですが、元々は[品/山]と思われ、「癌」という漢字の音符に使われています。

ジオジャパンの第2集では、日本列島を作った3番目の大事件として、1400万年前の巨大噴火で作られた紀伊半島を取り上げていました。
大蛇ぐらなどがある「大台」の山も、同じ時期の巨大噴火によるもののようです。
紀伊半島の巨石をテーマにした番組。タイトルの象形文字を思い浮かべながら、興味深く視聴しました。
[93055] 2017年 7月 31日(月)16:23:47【1】hmt さん
武蔵国小山田城主伊豆守さん
[93054] 伊豆之国 さん
「戦国市盗り合戦」でその昔「出羽国仁賀保一夜城主」を名乗ったこともある、武蔵国小山田城主伊豆守

「小山田城」の存在は全く知らなかったのですが、所在を調べてみました。
意外にも、私の母の実家・武蔵国【南】多摩郡小野路村【鶴川村を経て町田市小野路町】[33902]の西隣。

そこで興味をそそられて調べてみたら、「初代城主」は 12世紀の源平時代 この地の別当(馬牧の管理者)として赴任した小山田有重という東国武士でした。

地名の小山田も、武蔵国【南】多摩郡下小山田村>忠生村>町田市下小山田町として、現在に伝えられています。

そして歴史の記録に残る「小山田」は、16世紀の戦国時代末期、武田氏滅亡に関係した 郡内【甲斐国都留郡】の有力武将・小山田信茂でした。

Webを調べたら、戦国武将を研究されている方による 小山田城、小山田氏に関するページがありました。
現代の城主・伊豆之国 さん は既にご存知のことと思いますが、せっかくの機会なので紹介しておきます。

小山田城の訪問記(町田市の大泉寺)~自然豊かな多摩の伝承地

小山田記~ 現認・小山田氏400年の存亡【小山田氏関連の考察とまとめ】
 副題にある「まとめ」から、多数のリンク記事を見ることができます。
 「全部見るとかなりの時間を要する」と断ってありますが、なかなかの力作のようです。

私も一部分しか読んでいませんが、小山田有重の子で 同じく多摩丘陵の稲毛荘に進出した 小山田(稲毛)重成は 源頼朝が落馬した馬入川事故[42974] の関係者でもあったとか。
[93053] 2017年 7月 30日(日)11:50:38hmt さん
秋田県にかほ市 象潟町
今朝のテレビ・小さな旅。「水鏡の郷 潤う~秋田県 にかほ市」というタイトルでした。

1689年 芭蕉が 浅い海に浮かぶ九十九島を舟で巡った 象潟(きさかた)。
松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し (奥の細道)

その後の象潟地震(1804)で潟湖の底は隆起し、松島と対比された景観は失われました。
水田化した土地ですが、田植え時に水が張られると、かつての多島海を彷彿とさせる面影になるとか。
国指定天然記念物「象潟」(九十九島)。

番組のテーマは鳥海山起源の冷たい湧き水【海底にも湧出し、岩牡蠣を育てる】であり、昔の名勝と直接関係なし。
でも、「九十九島」が度々使われていたのに、「象潟」という地名が 一度も登場していなかった。
そのことが気になりました。

2005年の平成合併で「にかほ市」になり、旧町名でもあった有名地名「象潟」は使われなくなったのか?
羽越本線象潟駅は健在ですが、住所地名は?

そこで、にかほ市のサイトを調べてみたら、町名一覧は見出だせなかったのですが、
どうして合併したのに『象潟』の名前が強調されるようなイベントや物事が多いのですか?
住所も象潟だけ、秋田県にかほ市象潟町~と『町』が付くし、…
という意見があり、市の回答は次のようでした。『象潟』について
住所については、「にかほ市」の後の大字名は旧町ごとに町内会の代表が決定したことで、旧象潟町の町内会の代表の中で「象潟町」を残したいと決定し、旧金浦町、仁賀保町では旧町名は残さないと決定したことです。

どうやら私が気にしたことは杞憂だったようです。
改めて「象潟」と「にかほ」について、地名の由来を調査。

コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
象潟という地名は、かつてこの地で蚶貝(きさがい)が多くとれたことに由来し、蚶方(きさかた)から象潟に変わったといわれる。

仁賀保の名前の由来 合併前の仁賀保町史を引用

変遷情報詳細
2004/12/20 新市役所の位置を変更(金浦町役場→象潟町役場)
新市名最終候補6点:にかほ,象潟(きさがた),このうら,しらせ,仁賀保(にかほ),日本海
新市名:にかほ市
市役所:象潟町役場

市役所を象潟に譲り、前町長時代は合併に消極的だった象潟町復帰を確実にし、市名は「ひらがな」で決着?

【おまけ】
新市名候補に挙げられていた「しらせ」の由来は、由利郡金浦町出身の南極探検隊長・白瀬矗です[42889]
[93051] 2017年 7月 29日(土)17:33:55hmt さん
町を母体とする村(2)神奈川県高座郡渋谷村のケース その変更種別は「分立」なのか?
[93020]の末尾で予告した「高座渋谷」に着手できない間に、「町を母体とする村」スレッドの発端とも言える 明治39年愛知県幡豆郡での3町降格事件? について、興味深い記事が [93031][93041] YT さん により紹介されました。
『一色町誌』 (1970年)に基づき、郡制施行時代における財政負担軽減という動機を示したものです。

府県と町村との間に 「地方自治体である郡」が存在した時代のこと。
地方行政に関する権限の所在は 現在と大きく異なっていました。20世紀初頭の 1906年と言えば、3段階[51042]で整備されてきた郡制度の完成形と言える「新・郡制」が施行されていた時代です。

郡立の学校があったり、郡による干拓・埋立事業が行われたり。形骸化した 現在の郡とは大違いです。
実例1:大住・淘綾(ゆるき)・足柄上三郡共立学校[4939] 神奈川県立秦野高校の前身です。
実例2:稗貫郡立(花巻)農学校[51042] 宮沢賢治が教員をしていました。
実例3:熊本県八代郡 郡築新地→郡築村[85117] 「郡築」という名称自体が印象的です。

その一方で、独自の「郡税」がなかった郡役場の収入源として存在した「町村分賦金」[83665][93041]
その負担を和らげる手段として使われたのが「合併を機会に、町という看板を降ろして村になること」。
なるほど。

本筋から外れていますが、参考までに 郡の末路を記しておきます。
わが国の産業構造・社会構造が大きく変ってゆき、地方行政機関としての郡制度は時代に合わなくなってゆきます。
「郡会廃止」により郡が地方自治体の地位を失ったのは 1923年でした。
郡長や郡役所は県の出先機関として残されましたが これも大正と共に終りを告げ、郡は単なる地域区分に戻りました。


明治時代の愛知県幡豆郡を離れて、昭和の神奈川県高座郡に移動し、変遷情報検索で渋谷を調べます。結果

「高座渋谷」は小田急江ノ島線の駅名です。1929年江ノ島線開通当時の郡名を冠しています。現在は大和市。
東京の郊外電車なので、【東京の】渋谷駅と区別できる駅名にしたのは当然のことです。
余談ですが、1940年に小田急が帝都電鉄を合併し、その後 1942年大東急になり、1948年大東急解体。この間の江ノ島線は、東京の渋谷をターミナルとする井の頭線と同一会社内でした。
小田原・江ノ島・井の頭の3線が描かれている昔の地図式車内補充券。渋谷と高座渋谷が同居しています。

それはさておき、自治体名は 1889年の高座郡渋谷村から 1944年に渋谷町になっていました。
注目すべきは、昭和合併時代の動きです。
最終的には大字長後など南部地区の藤沢市編入(1955/4/5)と、大字福田など北部地区の大和町編入(1956/9/1)との2段階の手続で【実質的に】分割されるのですが、この間の5ヶ月弱、北部地区には「2度目の高座郡渋谷村」が存在することになりました。

変遷情報詳細 によると、「高座郡渋谷町の一部」を「分立」し、「渋谷村」とした となっていますが、その渋谷町は 同日に藤沢市に編入され、消滅しています。一部【北部】を分立した以上、藤沢市に編入されたのは南部だけの筈であり、これが変遷情報詳細に「渋谷町(同日付けで分立した(新)渋谷村を除く渋谷町全部(大字長後, 大字高倉))を編入」と記した根拠になっています。

「分立」を前提とすれば、この記述はそれなりに筋が通っているようです。
しかし、「分立した(新)渋谷村を除く渋谷町全部を編入」という持って回った表現が少し気になります。

分立後もそのまま存続する筈の母体が編入によって消滅するのならば、そもそも「母子共に健在」を前提とする「分立」という変更種別を使ったのが不適当なのではないか?

余計なお世話かも知れませんが、「分立」でない可能性も考えてみました。

変遷情報には記録されていませんが、落書き帳内を「渋谷村」で検索すると、[32478] 林檎侍[花笠カセ鳥]さん の記事「渋谷町から渋谷村へ」があり、昭和30年に出された2件の総理府告示が示されています。

総理府告示 S30-909  S30/3/30 市町村の廃置分合 Aを廃し、A1の区域を藤沢市に編入
総理府告示 S30-1112 S30/4/ 4 町村の廃置分合  Bを廃し、B1の区域をもって渋谷村を置く
告示日付は違いますが、効力発生は 共に S30/4/5 であり、前後関係はありません。

渋谷町関係分は A=渋谷町、B=渋谷町 であり、2つの告示の前半は同内容【渋谷町の全域廃止】です。

B1の区域は、先に【北部】と略記した区域です。告示 S30-1112 の廃置分合により(新)渋谷村設置。
ここで注目したいのは、この告示が「渋谷町のうちB1の区域を分けて」という言い方をしていないことです。
「分立」ならば、「分け」と記した筈ではないのか?

[55654] 88さん は、「分立」 or 「分割」を論じた記事の中で、戦時合併した栗橋町の分立告示を例示し、 
「埼玉県北葛飾郡栗橋町のうち、○○を分け」というのが、「分立」の表現です。つまり、栗橋町そのものの法人格は存続する、ということです。
と説明し、「母体の一部が分かれ、母体の法人格も存続」が「分立」を裏付けているとしているようです。

「渋谷町を廃し」で始まる告示 S30-1112 の廃置分合は、「分立」ではないのかもしれない。
変更種別の詳細説明に記されている現在の定義には合っている。
しかし、分立した母体が廃止される 渋谷町のようなケースは 想定外 だったのではないか?
そもそも、母体の法人格が残るからこそ、「分かれる」のであり、渋谷町廃止なのに「分立」とは、言葉として違和感があるのではないか? 渋谷村の場合は、もちろん「分割」でもない。

総理府告示 S30-1112 に基づく(新)渋谷村のケースは「一廃一置」です。これに適用すべき変更種別は?

現在の変遷情報では「分立」となっていますが、変更種別の詳細説明の中から、他の候補を強いて選べば、「村制」になってしまいそうです。
「一廃一置」の代表例は 単独「市制」です。
法人格継承は別として、単独「町制」も これに近い。
渋谷町とは別法人の渋谷村を作るプロセスを「村制」と呼んでも、言葉としての違和感はなさそうです。

もっとも、既存自治体の廃止を伴わない「設置だけの村制」事例[85102]とは、明らかに異なります。
別の変更種別を作るべきかもしれません。
…と、変更種別についての考えは迷走状態が続きます。

[1756][32467] Issie さん の考え方も、分立のような「継承関係」を否定し、たまたま同じ名前の「別個の存在」と理解しているようです。
以前この地域に存在した自治体の名を採って「渋谷村」としたけれども,形式上は昔の「渋谷町」をチャラにし上で,「全然関係のない」新自治体が編成された,ということになるのです。
もちろん,現実には旧渋谷町の組織を引き継いでいるのでしょうが。

新しく設けられた「渋谷村」はこの「渋谷町」を直接継承したものではなくて,これを分割して【引用者注】「新・渋谷村」と「藤沢市」のそれぞれに“引き取られた”と理解したらいいのだろう,と考えています。
【引用者注】もちろん制度としての自治体分割ではなく、実質的な分割という意味です。

取り留めのない状態ですが、これで渋谷村設置に関する問題点指摘?の長文を終え、失礼します。
[93043] 2017年 7月 28日(金)15:00:23hmt さん
文字数逆転 甲州市塩山の「かわだ」という地名
[93024] 通りすがりさん 訂正のお願い

甲州市教育委員会による地名の由来です。出典
昔、重川の西に西広門田(にしかわだ)、東に東広門田(ひがしかわだ)と呼ばれる二つの村があった。重川の度重なる氾濫によってある時、東広門田が流され西広門田が残った。その後、西広門田(にしかわだ)を「かわだ」と呼ぶようになった。
広門田(かわだ)は鎌倉時代の1274(文永11)年に建立されたという『広門田山(かわださん)法伝寺』の山号に由来するとされる。

これに基づいて解釈すれば、「かわだ」は「広門田」という山号の読みであり、元々は文字数逆転ではなかった。
笛吹川の支流である重川(おもかわ)と塩川との合流点付近の氾濫により東広門田が失われ、残された「西広門田」が 漢字4文字の地名「西広門田」 と 「かわだ」という3音の呼び方 とを継承した結果、文字数逆転が生じた。

ネットで軽く検索しても「東広門田」で「やまだ」と読むという情報はここ以外には見つかりませんでした。

ネット検索で現れるのは、ベコヤマベコタロウさん[20521]ご本人の記事[32838]だけですね。
※地名にはありませんが、「東広門田」は「やまだ」と読むらしいです。[32838]参照。
でも、塩川の東側の地形は 「かわだ」に対応する「やまだ」にふさわしくないように見えます。
出典が定かでなければ、備考欄の「やまだ」説を紹介した部分は削除しておくのが無難なように思われます。
[93020] 2017年 7月 24日(月)16:01:45hmt さん
町を母体とする村(1)新設合併・分割・分立
1906年 愛知県で行なわれた町村再編に際して 幡豆郡で起きた珍らしい出来事。
それは「町を含む新設合併による村の誕生」でした。しかも1村だけでなく 3村も。何故か[92993]

こんな質問に端を発して提供された 一群の調査データがあります。[93006] グリグリさん。

「町が村になるのは珍しい」という常識は 誰でも抱いていたことと思われますが、変遷情報の立場で整理された今回の調査結果を見せられ、改めて私の感想を記します。

最初は、「町を母体とする村」として「3種類があり、それぞれの数を知った」ことです。

1 町を含む新設合併による村

新設合併による 9800村 のうち、これに該当するのは 僅かに9村でした。
しかも、内5件は母体の町の一部だけの関与であり、佐渡の新町村?も除けば、残るは幡豆郡の3村だけ。

町村制初期には 町と村との区別が さほど意識されておらず、町となるべき要件【地方自治法地方自治法第8条第2項】も未制定でした。種別を示す文字は、「適当に選ばれていた」と思われます。。
それでも、町の全部を含む合併によって生まれた3自治体を「村」にした 幡豆郡の事例は、珍しかったのでした。

2 町の分割により生まれた村

「分」も「割」も意符に「刀」が使われています。
「町村の分割」とは、多少の無理は承知の上で、力づくに頼っても 別の自治体になるのだ。
そのような決意を感じさせる言葉です。
[93006]の「分割情報一覧」で示された 163事例の大部分は、村の分割→複数の村 でした。

「町の分割」となると それ自体が少数であり、町の分割により生まれた村を数えると、15村でした。

分割情報一覧 #1~#2 網走町→網走市と東藻琴村への分割。
市と村に分割するという組合せ。いかにも異例ですが、それだけに 異質な存在であったことが窺えます。

#3~#7 青森県木造町の事例は、分割手続でなく、境界変更でもよかったのでは? と思わせる内容です。
実質的に新町村は誕生していないので、町の分割により生まれた村にはカウントしていません。

埼玉県の事例。3組15町村 #40~#54 は 戦時合併解体の典型例【[80464] No.5. 6, 8-10】です。
カウントした全国15村の内、12村が ここに集中していましたが、もちろん戦時合併前の旧村の復活です。

興味深いのが、これも戦時合併がらみですが、1950年に熊本県三和町の分割で #152 高橋村が誕生した事例です。
1889/4/1【生まれながらの町】飽田郡高橋町。戦時合併で池上村、城山村と合併し三和町となっていました。

[53580] むじながいり さんの記事があります。ここでは「高橋村として分立」と記されていますが、変遷情報によると、1949年 池上村分立の後、1950年に城山村と高橋村に分割 となっていました。
いずれにせよ、高橋町→(戦時合併時代の三和町を経て) →高橋村 という変遷です。

3 町を母体とする分立により生まれた村

[93006]の「分立情報一覧」には244件のデータが示されています。これだけでも「分割」より多いのですが、実質的には「分立母体」となった町村も影響を受けているので、これを加えれば更に多数になります。

「町を母体とする村」という見地で最も有名であり、しかも現存している自治体は、長野県上伊那郡宮田村【分立情報一覧の #124】です。
[93006]末尾に紹介されているように、直接に宮田町→宮田村の変遷があったわけではなく、
駒ヶ根市を経由していますが、宮田村 → 宮田町 → (駒ヶ根市) → 宮田村、と町から村へ実質的に戻った例
です。

次に、[93006]の「分立情報一覧」 #102 として記録された 神奈川県高座郡渋谷村 について記したいのですが、長くなりそうなので、別記事にします。
[92995] 2017年 7月 19日(水)23:54:04【1】hmt さん
幡豆郡1906年5月1日の変
[92993] 通りすがり さん
一色町、横須賀町、平坂町の三町が合併後に村制を敷いた
なぜ幡豆郡のみでこのような現象がおきたのか

このサイトでは、記事検索により過去の事情をある程度知ることができます。
参考までに、昨年の私の記事など いくつかの記事を示しておきます。

[84183] YT さん 愛知県幡豆郡平坂村→平坂町→平坂村→平坂町に関する市区町村変遷情報の要修正案件
[90129] 白桃さん 幡豆郡1906年5月1日の変(事務連絡も兼ねて)
[90136] hmt 明治39年 愛知県における町村再編成
合併は人口の絶対数を増やすが、同時に市街地的な印象が希釈され、「農漁村的」になってしまいます。
1906年愛知県幡豆郡の3事例は、この仕組を素直に受け止めた結果だったのではないでしょうか。
[90137] 白桃さん Re:明治39年 愛知県における町村再編成

# 「郡」を対象にした白桃さんの記事から、タイトルを借用しました。

【追記】[90136]で紹介した中島論文へのアクセス方法
記事には リンクが付けられていませんが、タイトル名からGoogleなどで検索した結果を選択すると、pdfファイルがダウンロードされます。
[92992] 2017年 7月 19日(水)19:10:49hmt さん
市町村界一点交差(3)「微妙隣接」扱いの市町村接点
最初に
[92968]は「新調査方法」という標題で、グレートジャンクション調査の手法を発見したような書き方をしました。

しかし、グリグリさんの 市区町村隣接関係一覧 の冒頭説明文をよく読んだら、「点隣接(赤背景)」の説明として、「四つ以上の自治体が一点で隣接」すなわち【グレートジャンクションである という趣旨】が既に示されており、ポップアップにより関係市町村名も示される仕組みになっていました。
なお、羊蹄山 Jct【北海道#58-63】の赤背景から出るポップアップ説明文の「6町村が点隣接」は誤記と思われます。留寿都村は無関係であり「5町村が点隣接」です。

ジャンクション主体の見方と、自治体主体の見方で 言葉の使い方が違っていたことから、私が勘違いしたのでしたが、[92968]は 実質的には先行した隣接調査の一部を拾い出しただけの内容であり、「新調査方法」と誇るほどのものではなかったわけです。
お詫びと共に、点隣接の「ピンクの彩色」という用語も、今後は「赤背景」に揃えたいと思います。

今回は「橙背景」の「微妙隣接」事例を検討します。

1 富士山 Jct

[92968]にも登場した 山梨県市町村隣接 を 再び使います。
微妙隣接とされているのは、富士吉田市と静岡県富士宮市。そして【山梨県南都留郡】鳴沢村と【静岡県駿東郡】小山町との2対です。

その小山町の領域内を 東から富士山須走口登山道が通じています。Mapionを見ると 五合目小富士の手前で、北側の富士吉田市との境界線が途切れ、山頂までの間は正式には境界未定と示しているようです。もっとも、色分けによって 推測境界? が示されています。

色分けや登山道の情報が見易い 15スケール図 をリンクしておきます。
この図は、山頂付近を中心にしているので、山頂西側の県境線の途切れは見えますが、東側の前記小富士付近を見るためにはスクロールする必要があります。

北側・吉田口登山道のある富士吉田市から ポインターを時計回りに動かし、示される地名を読んでみます。
概ね お鉢めぐりルートの外側では、富士吉田市→小山町→(御殿場市、御殿場口登山道)→富士宮市(富士宮口登山道、最高峰の剣ケ峰)→鳴沢村を経て 白山岳で富士吉田市に戻ります。

このポインターや色分けを根拠として Mapionが暗示するところによると、富士山 Jct の位置にあるのは、白山岳ということになります。
この位置には、相対する点隣接?自治体として、A富士吉田市とC富士宮市、B小山町とD鳴沢村の2対が存在。
しかし、「境界線が描かれていない推測境界?」であるという理由で、「微妙隣接」と表現されました。

鳴沢村に微妙隣接するとされた「橙背景 小山町」のポップアップ説明文には、次のようにありました。
富士山頂で富士吉田市、鳴沢村、富士宮市、小山町の境界が未定のため、鳴沢村と小山町の隣接関係はあいまいであるが、隣接の可能性が高いと判断(富士吉田市と御殿場市、鳴沢村と御殿場市の隣接の可能性は低いと判断)

ここで御殿場市が登場したので Mapionを見直すと、御殿場市の境界線は 富士山頂郵便局を頂点としてシッカリ描かれています。仮に鳴沢村の領域が色分けと異なり富士山頂に達していたとしても 御殿場市との隣接はあり得ません。

それは良いのですが、この地図を見ていたら、少し南に見える「富士市の領域」が気になりました。

futsunoおじ さん 自治体の最高地点コレクション静岡県 によると、富士市の最高点は 富士山南面 3680m地点 です。
これは、先の御殿場市北限頂点【郵便局付近】に かなり近い場所です。
しかし、Mapion【等高線間隔50m】が示す 富士市最高点は 富士宮口登山道九合目より下の 3350m地点付近 です。
2つの地図の縮尺は #16スケールに合せておきました。

境界未定により境界線が途切れた「微妙隣接」とは無関係ですが、両図の示す富士市北限は異なる位置です。
このような山岳地域については、やはり 地理院地図を信頼したい。そのような事例として示してみました。

2 蔵王 Jct

[92966]では、蔵王も2県4市町にまたがる境界未定地域であり、宮城県側の柴田郡川崎町と刈田郡蔵王町の間では Mapionの境界線に途切れがある【約 2km】ことを記しました。

市区町村隣接関係一覧を見ると、確かに 橙背景の4市町【A山形市/B川崎町/C蔵王町/D上山市】が 町境線の途切れと関係しており、ポップアップ説明文には 何れの組み合わせも
隣接の可能性が高いと判断(点隣接の可能性もある)
と記されていました。

このように、蔵王 Jctに関係する 橙背景市町 ABCDの説明文には、括弧付きですが「点隣接の可能性」と、グレートジャンクションについての言及があります。
前記 富士山 Jct の関係市町村の説明文についても、同様の言及があって よいのではないでしょうか。

3 北信野々海 Jct

このJctは、A上越市/B十日町市/C下水内郡栄村/D飯山市 が関係していますが、Mapionでは、長野県側の栄村と飯山市の間の境界線が描かれていません。その色分けはキャンプ場に近い深坂峠がBCD境界となっており、境界線で明示されている DAB境界とは約1km離れています。
つまり、この 北信野々海 Jctのケースは、境界線が欠けた「微妙隣接」ではあるが、4自治体ABCDの点隣接【グレートジャンクション】の可能性はなく、富士山や蔵王とは異なる隣接状態であると思わます。
[92981] 2017年 7月 14日(金)22:57:34hmt さん
杉並区今川
[43558] hmt
家康よりも前に「海道一の弓取り」だったのが、今川義元だったのですね。「東海の巨人」とも呼ばれたようです。

[11744][11752] KMKZ さん
今川義元の子、今川氏真は江戸幕府に高家として召抱えられ若干の領地を拝領しています。
高家今川氏は、江戸時代には、武州多摩郡井草村(現在の東京都杉並区北部)を領地としています。

昔の記事を思い出したのは、テレビ画面に 杉並区今川 が映されたからです。
東京都水道の水源の一つに使われている善福寺[58728]の池からも近い 武蔵野の湧き水の一つ、妙正寺池の近く。

桶狭間の戦いで不覚にも織田信長に討ち取られた今川義元。
今日の 番組のテーマは、敗者になってしまった戦国の雄・今川家の跡取り・今川氏真夫妻による、敗者復活戦物語でした。

徳川家康配下になったものの 牧野城主を解任され、武将を諦めて京都で第二の人生。
武の世界から文化路線への転身が成功。幕末の今川家は老中に次ぐ地位である若年寄にまで出世しました。

今川焼き さん。十番勝負以外の記事も お待ちしています。
[92979] 2017年 7月 14日(金)17:53:37hmt さん
南極は冬なのに…と思ったが
[92977] 山野さん
南極で「棚氷」から分離して、その重さがなんと「1兆t」という桁違いの氷山が誕生しました。

ロイターは「欧州宇宙機関が冬季を通じて衛星を駆使して氷上の割れ目を監視しており」と伝えており、一瞬、南極は冬なのに…と思ってしまいましたが、その後に「数カ月にわたり分離寸前の状況にあった」とありました。
BBCによると 「亀裂の拡大は2014年以来加速していたため、近く分離する確率は高いと言われ続けてきた。」
…10年以上前からの観察で、短期間の話ではなかったのですね。

面積5800km2 三重県の面積とほぼ同じで、観測史上最大級の氷山(NHK)。
「A68」と命名される見通し(CNN)。

以下、主として BBCの報道から拾った情報を 補足します。
厚さ200メートル以上、記録中トップ10に入る大きさ。衛星時代に観測された過去最大の氷山は、2000年にロス棚氷から分離した「B-15」と呼ばれるもので、面積は約1万1000平方キロだった。
1956年には米海軍の砕氷艦が、約3万2000平方キロ級の氷山に遭遇したという報告もある。これはベルギーより大きい。残念ながら当時は衛星による追跡調査で確認することはできなかった。

この地域【ラーセンC棚氷】から出る氷山の多くは、英領サウス・ジョージア島周辺の浅い大陸棚に乗り上げ、やがて溶けてなくなることもある。

…ということで、少し前に書いた サウス・ジョージア島[92785][92786]に再会しました。
[92972] 2017年 7月 12日(水)18:31:02【2】hmt さん
市町村界一点交差(2)選外になったジャンクション
[92966]新調査方法で得られた グレートジャンクション の数は僅かに9ヶ所。意外に少数でした。

1 合併の影響

2004年の[95592]当時は 当選編に挙げられていたジャンクションですが、その後の合併によって境界線が消滅して失格した接点を列挙しておきます。

記事番号:[25592]-1 都道府県:北海道 Jct名称:オホーツク JCT 当時の関係市町村【北→東→南→西と時計回り】:A北見市/B訓子府町/C置戸町/D留辺蘂町 合併の影響:AとDが合併→北見市

以下、項目名を省略し、同じ順番で列挙します。
[25592]-4 秋田・山形 仁賀保 Jct A矢島町/B遊佐町/C象潟町/D仁賀保町 CとDが合併→にかほ市  
[25592]-5 千葉 印旛沼 Jct A栄町/B成田市/C印旛村/D本埜村 CとDが合併→印西市
[25592]-11 三重・奈良・京都 月ヶ瀬三県境 Jct A阿山郡島ヶ原村/B上野市/C添上郡月ヶ瀬村/D相楽郡南山城村 AとBが合併→伊賀市 
[25592]-12 広島 西城川 Jct A口和町/B庄原市/C三次市/D君田村 AとBが合併, CとDが合併 備考:西城川は江の川の支流
[25592]-14 香川 高松空港 Jct A香南町/B香川町/C綾上町/D綾南町 AとBが合併→高松市, CとDが合併→綾川町
[25592]-16 大分 彦岳 Jct A津久見市/B上浦町/C佐伯市/D弥生町 BCDが合併→佐伯市
[25592]-17 宮崎・鹿児島 霧島韓国岳 Jct Aえびの市/B小林市/C霧島町/D牧園町 CとDが合併→霧島市
 今年になってからも [92702]で言及し、地理院地図をリンクしていました。

2 判定に用いた地図の影響

[95592]で当選編に挙げられた18Jctのうち、[92968]の生き残り組 8、上記合併失格組 8でした。
残るは、2004年には Yahoo!地図で合格したが、今回 判定基準に用いたMapionを大縮尺にしたら 点隣接でなかった2件です。

[25592]-7 長野県の 信州犀川被岸沢 Jct は、Mapion 16スケール に拡大したら、A長野市/B東筑摩郡麻績(おみ)村/C筑北村/D生坂村のうち、「BとDとが隣接していない」ことが判明し、惜しくも選外と判定されました。
但し、地理院地図で判定すれば、#17スケール まで拡大しても明らかに点隣接であり、地図種類の選定による問題が残ります。

[25592]-18は、鹿児島県の 霧島烏帽子岳から西に伸びる尾根にある Jctです。A薩摩郡さつま町/B霧島市/C姶良市/D薩摩川内市祁答院町。Mapionでは、スケール15図 でも AとCが非隣接であることが明らかで、当然ながら選外になりました。
ところが、地理院地図では スケール#17図 でさえも、この地点をAとCとが点隣接しているように描いています。

2004年の[25588]「残念編」について、私は現在の Mapionによる検討を加えていませんが、もしも点隣接している事例があれば、グリグリさんが市町村隣接関係一覧用の再検討をされた際に、拾い出されているものと思います。[89308]参照
[25588]-30で残念編に入れられていた奥多摩/郡内 Jct[92966]の点隣接を、既に[82209]で指摘されていることからも、このことが推察できます。

3 金剛山地葛城 Jct

残念編について一つだけ補足しておきたいのは、[25588]-57に記録されていた A葛城市/B御所市/C南河内郡千早赤阪村/D河南町 が関係するジャンクションです。今回 「金剛山地葛城 Jct」 と命名します。

「金剛山地葛城 Jct」は、最終的には グレートジャンクションに の地位を獲得できませんでした。
しかし、[87857]の問題提起に始まり、十番勝負との関連を含む若干の議論の中で、グリグリさんから[88596]
自治体の隣接一覧ページの整備を進めたい
との発言があり、後に[89308]「市区町村隣接関係一覧」という形で集大成されたデータベースが提供されました。
このJctは、そこに至る「きっかけ」として 記念すべき題材でした。

…私はそのように評価しております。関連記事

2004年に投稿された当時と同じ地図である保証はないのですが、[25588]-57にリンクされたYahoo!地図を見ると、虫垂状にぶら下がっている河南町平石の先端部(南北200m弱)が認められます。
これは現在の Mapionでも同様であり、「市町村隣接関係一覧」でも「AとCとは非隣接」になっています。

地理院地図(スケール#17)は、前記「虫垂」がなく、そのために AとCとが隣接【BとDとは非隣接】という全く逆の隣接関係になります。
問題の「虫垂」があるとすれば、地理院地図の「金剛」という文字の右側、県境線沿い左側ということになります。

[87841] N さん
地理院地図が、あえて河南町と御所市を隣接させていない、というのは何かあるのでは?と勘繰ってしまう
根本的な疑問ですが、あのような山の中の境界は誰がどのように決めて、地図を作る人間はそれをどのように確認しているのでしょうか?

Mapionにデータを提供しているゼンリンは、住宅地図の更新[92922]については、実地調査に基づく実績を何十年も積み重ねている会社だと理解しています。しかし、このジャンクションは、地図から読み取れるように、住宅など全く存在しない山の中であり、街なか とは事情が違うでしょう。

河南町平石の領域からぶら下がった「虫垂」。国土地理院も知らない その情報 をゼンリンが独自に得たとすれば、それは役場又は登記所の図面か?

国土地理院は登記所まで手が回らず、役場からの情報がなければ、地名調書[56419]にも記録されない。
こんな事情が、河南町の「虫垂」の有無、ひいては地図の種類によって異なる隣接関係 に及んでいるのかもしれません。

当サイトの「市区町村隣接関係一覧」では、B御所市とD河南町との隣接は グレーの「説明付隣接」として、地理院地図境界線の扱いに関するポップアップ説明があります。しかし、A葛城市とC千早赤阪村との関係については、非隣接とした説明抜きです。【適切な場所がなかった? 】

おまけ1:地理院地図に基づく判断でも、「金剛山地葛城 Jctは、グレートジャンクション選外」の結論は不変。

おまけ2:金剛山地葛城 Jctは 無人地帯なので まだ良いのですが、間違っていた境界の変更でも、これが人口移動を伴うとなると大騒ぎ という 過去記事
[92968] 2017年 7月 10日(月)16:56:43【1】hmt さん
市町村界一点交差(1)新調査方法
[92966]の末尾で、蔵王が グレートジャンクション候補であったこと[25889]に触れました。

地名コレクションに関しては、2006年に みやこ♂ さん が手を挙げ[55632]、早速「市町村界一点交差」コレクションの名で 事前登録が行なわれました[55637]
しかし、平成合併の影響など諸事情の影響もあった故でしょうか、残念ながら 未だにデビューしていません。

グリグリさんが十番勝負関連資料として作ってくれた 市区町村隣接関係一覧[89308]が、このコレクション作りに役立つことに気がつきました。

奥多摩/郡内接点【…と勝手に命名】を Mapionで例示し、説明します。

ご覧のように三頭山の山頂西側にある4市町村の接点。このジャンクションを「奥多摩/郡内 Jct」と記すことにします。甲州の呼び方では、甲府盆地の「国中」と対比して、都留地方を「郡内」と呼びます。
関係市町村は、時計回りに A:東京都西多摩郡奥多摩町、B:同檜原村、C:上野原市、D:山梨県北都留郡小菅村です。

「市区町村隣接関係一覧」の山梨県を見ると、上野原市と奥多摩町、小菅村と檜原村とが「点隣接」であることが ピンクの彩色によって 示されています。【当然のことながら、東京都を見ても同じ結果が得られます。】
これは、地図から得られる AとC、BとD の関係と同じ情報を伝えており、この2対の点隣接情報が すなわち グレートジャンクション情報 であることを示しています。

この手法で47都道府県を閲覧すれば、全国のグレートジャンクションを簡単に集めることができます。

補足説明
Mapion地図は 最大縮尺のスケール19まで拡大しても 4市町村の接触が1点に集中していることを別に確認していますが、周辺情報がわかるように スケール15で示してあります。
地理院地図の最大縮尺はスケール#18でしたが、境界線はスケール#17までであり、しかも不明瞭であり、 AとCとが普通に隣接しているようにも見えます[87841]

国土地理院は、面積調・地名調書などを通じて各自治体との接触を持っており、隣接関係に関しても 最も信頼できるデータを持っている筈と思われます。現に、Mapionに描かれている境界線の一部が、境界未定のために地理院地図では示されていない例が多数あります。[92966]で記した蔵王における 上山市・蔵王町間の県境線 は、その一例です。

このように一長一短があるのですが、境界線が見易いことは 何と言っても Mapionの持つ利点です。
そして、【全くの想像ですが、】「厳密には境界未定」であることを知りながらも、実用的な見地から 何らかの処置で対応しているのではないでしょうか?

すなわち、推測にある程度の自信がある境界については、境界線を描いてしまう。
自信度合いが低いが、ある程度推測できる境界は、色分けにより暗に示しておく。
権利がらみの争いなどには使えないとしても、地理趣味の私達にとっては有り難いサービスです。

このように、Mapionは お役所の地図とは一味違う 民間地図だと思われます。
その最大縮尺図により隣接状況を確認した「市区町村隣接関係一覧」は、実用的に妥当なデータであると考えられ、「市町村界一点交差コレクション」も、このデータを利用して完成させたいと考えます。

方法論の能書きが長くなりましたが、[25592] みやこ♂ さん を改訂したグレートジャンクションのリストです。

我が国で唯一の存在。5町村が関係する「羊蹄山 Jct」から始めます。
No.1 都道府県:北海道 名称:羊蹄山 Jct 関係市町村:【後志】A倶知安町/B京極町/C喜茂別町/D真狩村/Eニセコ町 記事番号:[25592]-3

以下、4市町村のジャンクションです。
No.2 北海道 阿寒奥春別 Jct 【釧路】A弟子屈町/B標茶町/C鶴居村/D釧路市 [25592]-2
No.3 福井 越前今立 Jct a福井市/B今立郡池田町/C越前市/D鯖江市 [25592]-8
No.4 東京・山梨 奥多摩/郡内 Jct A西多摩郡奥多摩町/B檜原村/C上野原市/D北都留郡小菅村 [82209]
No.5 長野 斑尾山 Jct A飯山市/B中野市/C上水内郡飯綱町/D信濃町 [25592]-6
No.6 京都 木津川 Jct A綴喜郡井手町/B木津川市/C相楽郡精華町/D京田辺市 [25592]-9
No.7 奈良 吉野口芋ケ峠 Jct A高市郡明日香村/B吉野郡吉野町/C大淀町/D高市郡高取町 [25592]-10
No.8 徳島・香川 讃岐/阿波 Jct A東かがわ市/B阿波市/C美馬市/Dさぬき市 [25592]-13
No.9 佐賀 筑紫天山 Jct A佐賀市/B小城市/C多久市/D唐津市厳木町 [25592]-15

各行の末尾に記した記事番号からわかるように、9件中8件は 2004の当選編にあった18件の生き残りです。
当選編の約半数は、平成合併により失格しました。
1件だけ、残念編[25588]-30から昇格。
これ以外にも多くの候補が提案されましたが、最終審査まで通ったジャンクションは皆無でした。

【追記】ジャンクションの名称について
No.1 羊蹄山 Jct のように有名地名の場合は、そのまま使えます。
No.4 の三頭山となると、聞いただけで場所を知ることは困難です。そこで、知名度のある奥多摩を用い、甲州側の地域名・郡内も併用しました。
No.2 阿寒奥春別 のように冠称も使いました。
No.3 の地図には 付近の地名も記されていないので、国名の越前と・郡名の今立で代表させました。
No.7 の吉野口は、飛鳥時代の吉野への入口という趣旨です。
No.8 も、最初は地形の「日開谷(ひがいだに)川」を使ったのですが、知名度がないので 国名連称の讃岐/阿波で間に合わせました。
それぞれのジャンクションについて、適切な名称を考えてみるのも、なかなか興味のあることでした。
[92966] 2017年 7月 9日(日)17:22:07hmt さん
蔵王山(2)「蔵王」は地域名 「山」を付けない呼び方に改めるのがよいのでは…
「さおうざん」という読み方。
違和感ありという批判は 御尤もですが、それ以前に問題にしたい点があります。

山地=山岳地域 の名称である「蔵王」に 「山」という字を付加して呼ぶこと。その是非です。

世間に知られていない地名ならば、山岳地域であること を示すために やむを得ない…という事情も考慮したいが、蔵王の場合は その必要がないでしょう。

箱根・熊野・雲仙・霧島 など、有名な山岳地域名は「山」という字を付けないでも通用しています。
# もちろん、「山」を付ける場合もあります。例:獅子文六の小説「箱根山」[71783]

地形由来の単純な自然地名というよりも、歴史・宗教を含む人生密着/文化的背景を持つ「地域名」なのでしょう。
赤石山脈など「山」を使った地域名もありますが、新参の「南アルプス」。自治体名にも使われました。

「地域名」について、1981年の池田論文[53057]は、「国土地理院が 国内の主要な自然地域名(山地・平野など)について標準化を試み、20万分の1地勢図などの小縮尺図に適用している」と記しています。

しかし 1962年に実施されたと思われる「標準地名表」には、既に「地域名」とは言い難い単独の山が 種別:山 で記載されています。例えば 主峰を剣山(つるぎさん 徳島県)で掲載。山地の剣山地は未発見。
地名標準化の対象は、標準地名第一報発行時には 既に「地域名」【山地】だけでなく、「単独の山」に及んでいたようです。[92958]参照。

現在、標準地名の影響は 5万分の1地形図、2万5千分の1地形図、、『地名集日本』は勿論のこと、他の分野【例えば放送を通じて社会への影響力の大きい気象庁発表】などにも及んでいるものと思われます。

『標準地名集』は 1971年に刊行されており、1973年、1980年に改訂版が出ており[53057]、1996年には『決定地名集』が作成されているとか。(国土地理院時報No.100,p.56-57)[53461]

要望によって「よみ」が変更された 硫黄島を示しておきます。参考:小笠原諸島地名事典
国土地理院の発表 でも、“地元で旧島民が「いおうとう」と呼んでいた背景”に基づく、小笠原村からの修正要望に応じたもの

[92955] inakanomozart さん
地名の読み(さらにはそのアクセントを含め)は 地域のそれが尊重されるべきであり、地域の大切な財産

この考えはよく理解することができ、標準地名表に掲載されていても、現状に照らして不適当ならば、改めようと発言するのは意義のあることです。山形市議会による可決[92945]は、その第一歩でしょう。

「山地と山」問題から外れますが、佐渡で「島の呼称」について討論会がありました[65109]

…で、標準地名表(3) を見たら、地域名:佐渡(さど)、島名:佐渡島(さどしま)とありました。
日常生活に密着した「地域名:佐渡」については、全く問題がなく、「島名の読み」だけに問題ががありそうです。

「統一が遅れるほど問題がこじれ広がる。」の趣旨は、国際的に通用している読みの存在を排除したいのか?
世界地図のスタンダード版や離島振興法の地域名「さどがしま」 参考:明和海運

市井の人々が地名をどう読むか 基本的に自由[92957]です。
自然地名標準化は 「国民全体に対する強制力のあるルール」ではありません。
地形種別で特化された「佐渡島」。それは 地域名「佐渡」や自治体名「佐渡市」に比べて使う機会も少ない地名です。
「さどしま」という読みを全国的に強制するのでなく、多様な答えを許容しましょう。
「正しい答は一つだけ」は思い込みに過ぎません。これが私の意見です。

話が脱線気味ですが、本題は地図による「蔵王山」の確認です。

国土地理院による 日本の主な山岳標高の索引図。その山形県をクリックすると、蔵王山に該当するのは 蔵王山<熊野岳>1841m 一つだけです。宮城県をクリックすると 蔵王山<刈田岳>1758m, 蔵王山<屏風岳>1825m, 蔵王山<不忘山(御前岳)>1705m と3山が出ます。 読みはいずれも「ざおうざん」と濁音で統一されています。

「蔵王山」は単一のピークを持つ「峰」ではなく、象形文字「山」が示すような複数のピークを抱えた「山岳地域」であると理解できます。しかし、広い「地域名」と狭い「単独峰」の両者を共に「○○山」と表記するのでは、「蔵王山」と聞いただけで どちらなのか 区別できません。

純粋の自然地名というよりも、文化的な意味も含む「地域名」であることを示すためには、地形種別名「山」で特定された「蔵王山」よりも、それを含まない地域名「蔵王」として扱う方が適切なのではないかと思います。 

以下は、地図等における この地域の表記状況です。
地名集日本
「蔵王山 ざおうざん Zao Zan 分類:Mountain」 示されている経緯度を 地理院地図で確認すると、地蔵岳山頂【山形市と上山市の境界】付近です。
地理院地図の「蔵王山」という注記文字は、それより1km以上南東の山形・宮城県境付近にあり、Mapionも同様です。

Mapionを眺めると、宮城県内で東から伸びてきた境界線【刈田郡蔵王町と柴田郡川崎町】が県境に達せずに途切れています。
地理院地図では 上山市・蔵王町間の県境線、地蔵岳付近の市境線にも途切れがあり、結局のところ、山形県側の上山市・山形市を含む4市町 1045.83km2が 都道府県にまたがる境界未定地域に該当するのでした。

Mapionの最高拡大図では、2市2町が「点隣接」しているように見えます。但し前記のように宮城県2町の境界は線で示されておらず、色分けで判断した結果です。

昔のYahoo!地図による調査ですが、[25889] 湾岸太陽族 さん が 報告しています。
思いがけず、またもやグレートジャンクション残念編らしきものを発見してしまいました。
いかがでしょう。上山市と川崎町がほんの少し接しちゃっているように見えるので×っぽいんですが。
それと、県境や町境が一部消えているのが気にかかりますが…。

ここで、グリグリさんが十番勝負用に作成した市区町村隣接関係一覧を思い出しました。
宮城県を見ると蔵王町は山形市との間が「微妙隣接」、川崎町は上山市との間が「微妙隣接」になっています。
色分けされているが、境界線が記載されていない部分は「微妙」という表現で処理していたのですね。
地理院地図の「蔵王山」という文字の右上、上山市・蔵王町間の県境線欠落部分と地蔵岳付近の市境線欠落部分とは、面積調には影響するものの、隣接関係判断には影響なし。
[92958] 2017年 7月 4日(火)19:52:22hmt さん
蔵王山(1)「ざおうざん」は「標準地名表」に記載された「よみ」 と確認できたが…
[92945] ピーくん さん が紹介してくれた新聞記事がきっかけになり、自然地名、特にその読み方についての議論が起っています。

その背景には、[87440] 般若堂そんぴん さん の「地名標準化? 蔵王山と出羽三山の場合」という記事の存在があります。
そして、日付を確認していただけば明らかなように、これは一昨年の「4月1日ネタ」です。

すぐ後の[87443]で明らかにされているように、事実に基づいた部分もあるのですが、
このように,地名標準化の一環として「さん」から「ざん」への切替が粛々と進められているというのです.
の部分、特に「粛々と進められている」というあたりについては、誤解される虞れもあるのではないかと思われるので、この記事で説明を加えることにします。

確かに気象庁発表の「ざおうざん」という文言は、地元でない私にも気になります。
下記のように現在の山形市民にも違和感があり、宮城県では「山」をつけずに「蔵王」と呼ぶらしい[87443]ならば、「蔵王」に改めるのがよいのではないかと思います。

[92945]で引用された河北新報2017/7/1の記事【現自治体名を補足】
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蔵王山は山形、宮城両県にまたがる熊野岳、刈田岳、地蔵岳などからなる山並みの総称。
(山形)市都市政策課によると、1931(昭和6)年、関係自治体だった山形県の旧堀田【山形市】、中川【上山市】両村、宮城県の旧川崎【川崎町】、宮【蔵王町】両村が国土地理院に「ざおうざん」の呼び名で申請し、表記登録された。
今回、蔵王山の呼び方が話題になったのは、気象庁が2015年4月に火口周辺警報を発令したのがきっかけ。連日、テレビやラジオのニュースで「ざおうざん」と読まれ、市民から「違和感がある」などの問い合わせが相次いだという。
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この記事にある「地元4村による申請→国土地理院による表記登録」の裏付けは取れていません。…と言うか、80数年も前には国土地理院が存在しません。
前身の陸地測量部に「地名を読みまで標準化して登録する制度」があったことなど、信じられない時代です。

[53057]で国土地理院地図管理部の池田稔さんが書かれた“地名の標準化について”という論文を紹介しました。
1981年のこの論文には 次のように記されています。
現在 日本では国内地名の統一について積極的な施策がなされていない。しかしながら 地名の実用上の利便のために 国内・国外の地名についての標準化の必要が国の行政機関 報道機関の間で認められている。とくに地図作成に関する国家機関や教育分野において関心がもたれ 各機関個別にあるいは若干の連携のもとに国内的統一への努力がなされている。

要するに、地図・海図・教科書・国土交通・放送など各機関による縦割り原則で行政が進められているが、

国土地理院・水路部間では連絡協議会をもち 日本の主要地名の書き方・呼び方について決定し 両者の地図・海図への統一的使用を図るため「標準地名集」を作成している。

標準地名表の代表的なものを示します。
明石海峡と明石瀬戸で異なっていた地名が統一されたのは昭和37年で、この頃から標準化されたようです。

安倍川・富士川[92955]の清音読みも掲載されています。[43914]で論じた秋芳洞(あきよし どう)もありました。
鹿児島湾には、一般の異称欄に「国定公園名では錦江湾」と記載。【環境行政にまで及ぼす意図なし】
愛知県の豊川(とよ がわ)には、市名(とよかわ)。【2語と1語の違いもあり、両者は別の地名】
長野県の犀川(さい がわ)には、「参考 金沢のは(さい かわ)」と記載。 

河北新報記事の「1931年」は、この地名標準化の準備が始まった可能性のある「昭和31年」かもしれません。
余談:
もし 昭和31年とすると、山形県南村山郡堀田村は「蔵王村」に改称しています。前年には宮城県刈田郡に既に「蔵王町」が誕生し、両者が共存していました。名所地名を利用した自治体名[91957][92668]の仲間です。

話の発端になった「蔵王山」は、同じ雑誌『地図』の後の号 2/8コマの左下付近ににあり、標準地名の「よみ」が「ざおうざん」と濁音になっていることを確認しました。

それよりも、標準地名を定めた昭和合併の頃。山形県だけにせよ 本当に「ざおうざん」という呼び方が使われていたのでしょうか? 地名調書[56419]に始まり、最終的な決定に至る 手続段階に不備はなかったのか?
現に、都道府県欄が「山形」となっています。これは 明らかに「宮城・山形」の誤記でしょう。

「よみ」の清濁問題だけではない? という疑いも生まれ、どうもすっきりしません。
[92952] 2017年 7月 2日(日)15:24:38【1】hmt さん
東京府荏原郡平塚村関連 併せて 落書き帳の中にある人口資料を紹介
[92947] Takashi さん
1920年から1925年という条件で調べたら面白いことになるかなと思い、検証してみました。(中略)
1920年の平塚村の人口は8522人、1925年の人口は72256人でわずか5年間で8.48倍の増加を示しています。

調査をしていただき、ありがとうございます。

[92947]を見た後で気がついたのですが、2004年のBEANさんの記事に 1920~1925年 東京市近郊5郡の町村人口増加率ランキング が出ていました。

参考までに、増加率上位の町村を再録すると共に、【1932年 東京市の区名】も併記してみます。
1 荏原郡平塚村【荏原区】 2 豊多摩郡杉並町【杉並区】 3 北豊島郡尾久町【荒川区】 
4 荏原郡碑衾村【目黒区】 5 荏原郡蒲田町【蒲田区】  6 北豊島郡長崎村【豊島区】
7 荏原郡馬込村【大森区】 8 豊多摩郡野方村【中野区】 9 南葛飾郡小松川町【江戸川区】
10 豊多摩郡和田堀内村【杉並区】

城南の荏原郡 4町村、城西の豊多摩郡 3町村 が多く、北豊島郡 2、南葛飾郡 1、南足立郡 0 と続いています。
元の記事は、落書き帳アーカイブズに収録されています。

参考までに、荏原郡を対象とした記事の一部を拾ってみました。
その中の[83708]には、戦前20年間の 平塚村(→平塚町)→荏原町→荏原区の人口 がありました。

更に [85274]右左府さんには、東京市周辺町村の人口増に関する記事集があります。


[92947] Takashi さん
あいにくながらこの時代の国勢調査のデータを私は持ち合わせていないのでこれ以上の調査はできないのですが、もしかしたら同等あるいはそれ以上の増加を示している町村があるかもしれません。

Takashiさん が落書き帳メンバーになるより前ですが、2013年に下記の記事があります。
お役に立つと思われるので、ぜひ ご検討ください。

[84549] YT さん 明治31年以降の市区町村別人口変遷の変遷
というわけで、「市区町村別人口 Ver. 0.10」として
以下に47todofuken01.lzhをアップしました(LHA圧縮、約7.3 Mb)。
解凍すると25Mbにもなります。
http://u6.getuploader.com/SR1gou/download/837/47todofuken01.lzh

[85243]に修正記事あり。
[92950] 2017年 7月 2日(日)12:25:48hmt さん
反対語コレクション 山谷
[92949]からリンクされた『反対語』コレクションを拝見し、多数の事例が集められていることに驚きました。
新収録の「大磯小磯」の次に「山谷・谷山」があります。

東京でも 代々木山谷小学校 が収録されていましたが、簡易宿泊施設などで有名な台東区から荒川区にかけての 山谷 を見出すことができなかったので、少し調べてみました。

荒川区の南千住駅から言問橋方面に南下する吉野通り。泪橋(なみだばし)で明治通りと交差した先は台東区になり、嘗ては「台東区浅草山谷1~4丁目」が存在しました。

しかし、1960年以来の山谷騒動で全国に知られた町名は、1966年の住居表示によって 清川・日本堤などに改められました。
2008年までは 旧町名に基づく浅草警察署「山谷地区交番」も存在しました。地元では マンモス交番の愛称で親しまれたようです。これも 2008年に「日本堤交番」と改名。

それでも何かの施設に 由緒ある「山谷」ゆかりの名が残っていれば、コレクションに記録しておきたい。

探したら、少し西側に 山谷堀公園 がありました。

山谷堀は 江戸時代には 新吉原にあった遊郭への水上交通路でした。山谷船を仕立てる船宿のあった日本橋箱崎町は「山谷河岸」と呼ばれたそうですが、現在のMapionでは、その痕跡を発見できません。

東京の郊外に目を向けると、私鉄の「山谷駅」が2つありました。

1901年 路面電車時代の京浜電気鉄道に山谷駅開業。線路移設・改称・休止などを経て1949年「大森山谷」駅廃止。
1952年に再開業しましたが 大森町駅という現駅名になり、駅名からは山谷が消えました。
Mapionでは 大森山谷公園 があります。

既に小学校名 がコレクションに収録されている「代々木山谷」にも駅がありました。
ここは 1927年小田急開業時に 山谷駅開業。隣接駅間が短く、大東急時代の 1946年に廃止。
[92933] 2017年 6月 27日(火)17:26:24【2】hmt さん
合併なしの5年間人口倍増レース
[922931] 白桃さん
1965/1970に合併することなく、人口が42,460人から84,919人と、倍増にたった一人だけ届かなかったB市

白桃さんのリストには、1960/1965 草加市 2.09、その次に 1965/1970 上尾市 2.02 が示されています。
これに次ぐB市は 春日部市であり、「合併なしの5年間人口倍増レース」のメダリストは 埼玉県トリオでした。

このレースで、実質倍率2.26という最高記録を出しながら 追い風参考記録になっているのが、1961年に 北河内郡 水本村を編入した 寝屋川市でした。

【1】タイトル変更
【2】追記
出場権を市に限らず、町村に拡大したら…などと考えてみましたが、調査が大変でしょうね。

市に匹敵する人口であった 1925年 東京府荏原郡平塚町 72256人 から 1930年 荏原町 132108人。
これでも「合併なしの5年間人口倍増」には及びませんでした。
でも、大都市近郊を調べれば、人口が倍増した町村を見つけ出すことができそうな気がします。

人口の少ない村では、1965年 秋田県南秋田郡大潟村 16人 から 1970年 1640人の 100倍増。
これは反則の疑いありとして除くことにするとして、1975年の大潟村は 3273人ですから 5年間でほぼ倍増。
同様の新規開村ですが、1970年 東京都小笠原村 782人 から 1975年 1507人。これも倍増に近いが及ばず。

やはり、タイトルのレースは かなりの狭き門 であることを実感しました。
[92922] 2017年 6月 25日(日)17:51:54【1】hmt さん
ゼンリン住宅地図
[92917] Takashi さん
ゼンリン住宅地図 足かけ66年「完成」

三角測量によって国土全域の地形を明らかにする 地形図整備事業は、陸軍参謀本部の陸地測量部により 1890年から行なわれ、5万分の1地形図の全国整備が 1916年(大正5年)に完了しました。足掛け27年。

より詳しい2万5千分の1地形図は、大都市・軍事施設周辺など一部の地域については、明治末期の 1910年から整備が始まりました。しかし、2万5千分の1が 全国的な長期計画になったのは 1964年でした。最後に測量された沖ノ鳥島は1983年というから、足掛け20年後、5万分の1を始めた 1890年から通算すると、足掛け94年になります。

付言すると、北方領土など一部の離島については、この計画による三角測量が実行されないまま、デジタル化された 電子国土基本図に移行しました(2011年)[77603]

住宅地図は もちろん 地形図とは調べる対象も精度も違います。
しかし、これも基本的な地図データであり、その全国な整備は 長期間に亘る大事業であることを 改めて認識します。

そして、縮尺だけで比較すると、1500分の1の住宅地図は、2万5千分の1地形図に比べて長さで 16.7倍、地図面積で 278倍という計算になります。

住宅地図の全国展開。それは、66年前の創業時には考えもつかない大仕事だったのではないでしょうか?
これが実現した背景には、物流革命による需要が存在しました。
10年前に[56610]で書いた 江戸切絵図誕生物語 を思い出しました。
ゼンリンは、その現代版を全国に普及させました。

「住宅地図の対象地域」の面積がどの程度あるのか見当もつきませんが、少し計算してみます。

「ゼンリンの住宅地図は 全国を約二千二百に分けて掲載」(東京新聞)というから、791市 23区 744町 183村の合計【1741】の1.3倍弱の冊数があるようです。

手元の1冊【富士見市】を見ると B3判で 75図あり、地図面積は 約14m2。縮尺1500分の1とすると 31.6km2という計算になり、実面積の約1.6倍です。富士見市外へのハミダシ率が大きいことは、平均的な自治体より小面積で複雑な境界線をもつ事情から納得できます。

住宅地図1冊につき、地図面積18m2(実面積40.5km2)、ハミダシ率1.5 と仮定すると 市町村内の対象面積は概算 27km2。
全国で2200冊の住宅地図がカバーする市町村面積は 約6万km2となります。
住宅地図の対象面積は、北方領土を除く全国面積 37.3万km2の 16%程度か。

全く自信はありませんが、こんな数字を出してみました。

このうち約四割を占める都市部のものは 毎年、それ以外の地域は 五年に一度 それぞれ更新している。

これだけの実績を民間の一企業で積み重ねてきたゼンリン。全国完成を機に、敬意を払いたいと思います。

…とは言うものの、人のやる仕事。更新漏れもありました。[49336]

東京の島しょ部の作成が後回しにされたのはゼンリンの本社が北九州市にあることと関係があるのでしょうか?

ゼンリン地図の最初は 1949年の『年刊別府』という小冊子に添えられた市街地図でした。創業時には 善隣友好をモットーとする「善隣出版社」を名乗っていたようです。

Challengeというページの真ん中の窓をクリック。
その右の窓【1952】から現れるのは、『別府市住宅案内図』で、これが[92917]に記されていた「足かけ66年」のスタートです。1954年以後の本拠は小倉です。
しかし、九州の会社であることと、三宅島や小笠原がゼンリン住宅地図の最後になったこととは、無関係でしょう。

三宅島の遅れは 2000年からの火山活動による島外避難の影響が大きく、大島・八丈島以外の伊豆諸島【利島・新島・神津島・御蔵島・青ケ島】は、その遅れに付き合わされてしまったのだと思います。

小笠原諸島【と言っても、住宅地図の対象になり得るのは 父島と母島だけ】は、電話の全国自動即時化も最後になりました(1983/6/21)。電信電話のあゆみ

余談:
意外なことに、そんな小笠原にも 公衆電話が明治38年(1905)に開通していたそうです(Wikipedia)。
日本からグアムへ、そしてアメリカへと通じる海底ケーブルの中継地で、これを利用することができたのですね。
でも、この細い通信回線では、現在のように気軽に利用することはできませんでした。

戦後の銚子無線局経由になっても電話回線数は少なく、電波障害もありました。
結局、時間遅れはあるものの、通信衛星経由の回線によって 小笠原と日本各地との間のダイヤル即時通話化が実現したのが、前記のように 1983年だったのでした。
[92916] 2017年 6月 23日(金)18:55:52【2】hmt さん
獺【かわうそ】地名
[92915] 白桃さん
※獺祭(だっさい)は山口県岩国のお酒

辞書で「獺祭」を引こうと思ったのに、見つかりません。資料を部屋中に広げているせいです。
やっと探し出した『大辞林』開き、晩唐の李商隠の故事を確認しました。
9世紀の彼も、詩文を作るに際して、多くの参考書を座の左右に広げていました。
彼は自らの姿を、獺【かわうそ】が魚を岸に並べているのに例えて「獺祭魚」という号を使ったのでした。

日本でこれを真似て「獺祭書屋主人」と自称したのは 正岡子規です。

「獺祭魚」【たつ うおをまつる】は、暦の二十四節気を更に三分した七十二候の立春から4番目(2/19-23頃)である雨水初候の呼び名としても使われました。もっとも これは 遣唐使により伝えられた宣明暦が使われていた時代で、現在の暦には「土脉潤起」【つちのしょううるおいおこる】と記されています。
宣明暦:日本では1684年の貞享暦[77583]に改められるまで、長期間使われました。
日刊☆こよみのページスクラップブックにも、獺祭の記事がありました。

さて、20世紀の終頃に登場した純米大吟醸酒「獺祭」の蔵元・旭酒造は、岩国市周東町獺越にあります。
今では岩国市内…と言っても、昔は西国街道の難所の一つであった 欽明路峠を越えた先の 周防国玖珂郡川上村。
これが明治の高森村、大正の高森町、昭和の周東町を経て、平成合併で岩国市になりました。

命名の由来には、地名に使われている「獺」の字を使ったことが記されています。
「川上村に古い獺がいて、子供を化かして当村まで追越してきた」ので獺越と称するようになった
この地名から一字をとって銘柄を「獺祭」と命名しております。

「獺越」は難読ですが 周東町では 地形図のフリガナのように「おそごえ」と読むようです。
カワオソの「おそ」ですが、別の獺越では 地形図に「うそ」とフリガナが付けられた地もあります。
「獺」の音は「タツ、タチ」で、慣用「ダツ」。…で、訓読みは? 一概には言えないようです。

この機会に、地理院地図で 獺【かわうそ】地名 を検索してみたところ、かなりありました。
カワウソは、日本人が昔から親しんでいた川の生き物であったようです。

【獺越】読みは、下記のように まちまちです。おそごえ、おぞごえ、うそごえ など
岩国市内だけ見ても、本郷町波野【はの】獺越【おそごえ】があり、隣接する周南市にも、大字鹿野上の獺【おそ】越があります。
その他、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字西中野川の獺越【おぞこし】島根県大田市山口町山口の獺【うそ】越島根県邑智郡邑南町井原の獺【おそ】越宮崎県延岡市北方町獺越【うそごえ】、鹿児島県薩摩川内市中村町獺【うそ】越。更に 岡山県玉野市宇野三丁目の獺【うそ】越鼻

【島の獺地名】
宮城県宮城郡松島町獺【かわうそ】島 千葉県鴨川市海獺島 神奈川県横須賀市海獺【あしか】島 

【水関係の獺地名】
岩手県陸前高田市小友町字獺【うそ】沢 福島県いわき市獺沢 福井県敦賀市獺河内 静岡県浜松市北区獺淵と獺淵川 兵庫県神戸市北区獺池 

【その他の獺地名】
青森県上北郡おいらせ町獺【うそ】野 秋田県能代市獺野 福島県相馬市獺庭 千葉県長生郡長生村獺【かおす】台 神奈川県藤沢市獺郷 新潟県新潟市南区獺ケ通 福井県福井市獺ケ口町 兵庫県神戸市灘区獺東谷 福岡県朝倉市獺ノ口 大分県日田市獺野尾 

地理院地図以外にも、「獺」地名の資料がありました。
地名コレクションを作る方があれば、ご利用ください。
但し、愛知県名古屋市熱田区「大獺子町(おおせこちょう)」のように、現在の熱田区の町名と異なる表記もあるので、御注意ください。
[92899] 2017年 6月 13日(火)19:05:51hmt さん
Re:消滅した自治体の所属の表記について
[92105] 白桃さん
正直申しまして私は、郡は「無用の長物」なので省略しても良いと考えており、特に消滅した町村が所属していた郡名は記載しない方が良いと考えています。

この件についての私の意見は、既に[92107]で記しており、過去にも度々論じているので「いまさら」なのですが、過去記事の中で偶々遭遇した、2つの兵庫県余部村【現・姫路市】の事例を補足しておきます。

[21916] グリグリさん
姫路市の公式HPにある姫路市の歴史のページでは、「1946年に飾磨市、白浜町、広畑町、網干町、大津村、勝原村、余部村と合併し、新しい姫路市誕生、新生姫路市議会議員選挙」となっています。一方、要覧では余部村は1954.7.1に八木村、糸引村、曽左村、太市村とともに編入されたことになっています。公式HPの方でも、1954年に「八木・糸引・曽左・余部・太市村を合併」となっています。つまり公式HPでは、余部村は二度合併したことになっています。明らかに何か混乱があったようです。

混乱の元になったと思われる公式HP・姫路の歴史の中の「姫路の歩み」という年表を確認した結果、次の記載があることを確認しました。
--------------
昭和21年(1946年) 飾磨市、白浜町、広畑町、網干町、大津村、勝原村、余部村と合併し、新しい姫路市誕生、新生姫路市議会議員選挙
昭和29年(1954年) 八木・糸引・曽左・余部・太市村を合併
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市区町村変遷履歴情報 兵庫県の記載
136 1946(S21).3.1 新設 姫路市 姫路市, 飾磨市, 飾磨郡 白浜町, 広畑町, 揖保郡 網干町, 大津村, 勝原村, 余部村
172 1954(S29).7.1 編入 姫路市 姫路市, 飾磨郡 八木村, 糸引村, 曽左村, 余部村, 揖保郡 太市村

両者を比べてみれば、違いは歴然としています。
姫路市の公式HPは「消滅した町村が所属していた郡名」を省略した「余部村」で、区別できません。
変遷情報では、1946年に合併したのは「揖保郡余部村」、1954年に編入したのは「飾磨郡余部村」であることが明示されています。

郡は「無用の長物」ではなく、記載を省略すると、グリグリさんまでも 混乱させる場合があるのです。
[92880] 2017年 6月 2日(金)14:50:36hmt さん
湿原由来の「牟田」地名
[92879] 山野さん
・鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田
長い+画数が多い
両者とも.配達物の住所欄書く時、困らんのかなぁ。枠が短かったり狭かったり+ルビ記入

ご指摘の問題点が現れている典型例が、皮肉にも 薩摩川内市サイト内の 町名等新旧一覧表です。

文字が重なり、そのままでは読み取り難いのですが、判読すると、次のように記されているようです:
No.80 薩摩(さつま)川内市(せんだいし) 祁答院町(けどういんちょう)藺牟田(いむた)【旧名】祁答院町 藺牟田
No.94 薩摩(さつま)川内市(せんだいし) 鹿島町(かしまちょう)藺牟田(いむた)【旧名】鹿島村 藺牟田 

要するに、薩摩川内市には、藺牟田池のある旧・祁答院町の他に、下甑島にも旧・鹿島村藺牟田があり、旧町村名を付けて2つの大字を区別したということのようです。

大字名の一部として残された祁答院町の「祁」という字。
祁山悲秋の風吹けて、陣雲暗し五丈原……(土井晩翠:星落秋風五丈原)
という詩に登場する地名では「キ」と読みますが、日本の村名では「ケ」と読みました。難読。
奈良県都祁(つげ)村は“ネへん”に書体変更しましたが[77347]、鹿児島県祁答院町は“しめすへん”のまま。

祁答院はさておき、「藺牟田」という地名も気になりました。
「牟田」の付く地名と言えば三池炭田で有名な大牟田市。有明海の大きな干潟が広がる地です。
祁答院藺牟田は 火口湖の「藺牟田池」に 藺草(イグサ)が生い茂る 湿地帯でした。

「牟田」というのは、湿地や湿田を意味する九州特有の古い言葉で、地名や名字に多用されているようです。
変遷情報検索を試みると、町村制施行後は福岡県の大牟田・西牟田と鹿児島県の藺牟田だけでしたが、その前の旧村は大分県以外の九州各県に存在したことを確認できました。

大牟田という地名は都城市高崎町大牟田にもあります。
こちらは大淀川支流沿いの湿原で、大牟田さんという名字発祥の地だそうです。
[92858] 2017年 5月 15日(月)16:34:39【2】hmt さん
命取りの動物
テレビで見た「ゲノム編集技術」に関する番組。マラリア対策の話に関連し、人間の命を奪っている最大の動物は「蚊」であり、年間の死者は 725000人と紹介されていました。
マラリアだけでなく、ウエストナイル熱、黄熱、ジカウイルス感染症(ジカ熱)、チクングニア熱、デング熱、日本脳炎など各種の感染症が 蚊の持つ病原体によって媒介されています。蚊が媒介する感染症

「蚊」に次ぐ2位が「人」による死者 475000人で、3位の「蛇」50000人、4位の「犬」25000人を 大きくリード。

11位以下には、意外に俊足で獰猛なカバ 500人、ゾウ 100人、ライオン 100人、狼 10人 などの猛獣に加えて、鮫 10人 などもありました。5から11位にランクされている動物は よく読み取れなかったので、WEBで検索してみました。

The World's Deadliest Animals
同じデータに基づく 日本語のまとめページもあり、こちらには 10位までの殺人動物に 画像や説明が付けられていました。

2つのページから知った5位~10位の英名 (病名)、和名【説明の一部】、死者数を再録しておきます。

5位:Tsetse fly (sleeping sickness) ツェツェバエ【アフリカ睡眠病】 10000人
5位:Assassin bug (Chagas desease) サシガメ【捕食性のカメムシ】 10000人
5位:Freshwater snail (schistosomaiasis) フレッシュウォータースネイル 10000人
8位:Accaris roundworm 回虫 2500人
9位:Tapeworm サナダムシ 2000人
10位:Crocodile ワニ 1000人

この説明には 同数5位【10000人】の殺人者 「Freshwater snail」 の説明と訳語が抜けています。
この殺人者による現在の日本の死者はゼロなのですが、数十年前には、日本の一部でも風土病として恐れられた歴史があり、私も高校の保健の授業で「ミヤイリガイ」という名を知った記憶があるので、少し説明を加えます。

「snail」と言うと「カタツムリ」が知られていますが、辞書を見ると一般に「巻貝」の意味があるようで、日本住血吸虫症の病原体の中間宿主としてで被害を及ぼした ミヤイリガイの姿を見ると、「淡水産巻貝」という訳語が適切なように思われます。もっとも、アフリカマイマイも同じような姿ですから、「カタツムリ」も「でんでん虫」に限らず、陸棲巻貝の通称として広い意味に使ってよいのかもしれません。

日本住血吸虫症という名からは、 日本の風土病のような印象を受けます。しかし、この病気は 中国・フィリピン・インドネシアにもあります。命名の由来は、日本での研究による病原吸虫の発見(1904年)です。

類似の住血吸虫症は アフリカ・中東・カリブ海など世界各地に広がっています。
いずれも 淡水産巻貝を中間宿主として、人だけでなく、牛馬などの家畜にも感染します。

日本では、甲府盆地・備後・筑後川中下流域などに存在しましたが、1978年を最後に新患者はなく、1996年に終息宣言が出され、年間 10000人もの死者を出している世界の中で、唯一の「住血吸虫症を克服した国」になっています。
日本住血吸虫病(片山病)の終息と広島県の取り組み

カタツムリを中間宿主とする寄生虫は、日本住血吸虫以外にもあるようです。
地球温暖化の影響もあり、異種を含む危険動物が北上してくる可能性も指摘されているようです。
カタツムリに触れてしまったら きれいに手洗いを。この程度の注意は 心がけておきたいものです。
[92850] 2017年 5月 10日(水)18:47:09hmt さん
北アメリカのフランス領土
[92845] 中島悟 さん
例えば、フランス。(中略)
しかし、北米にあるサンピエールミケロン県はわずか1万人弱で、このため人口格差は40倍!

この記事が入口になって 歴史地理好きの私がフラフラと迷い込んだ先は、「北アメリカのフランス領土」でした。
面積最大の小選挙区[82322]の時は、まだ国政選挙に関係するコメントだったのですが、今度は格差是正問題と全く関係ない雑談です。ごめんなさい。

太白さんが「CIA factbook」から拾ってくれた[10526]海外領土の記載
仏 Saint Pierre and Miquelon サンピエール・ミクロン 46 50 N 56 20 W 北アメリカ

カナダの東端、ニューファンドランドの南にあります。世界飛び地領土研究会には、「北米に残されたフランスの漁業基地」と記され、(仏)という注記の入った2つの島は 地図の「大西洋」という文字の上部に見ることができます。[86385]でgoogle mapを付けたノバスコシアの東側。

1492年のコロンブスに始まる新世界への航海。スペイン・ポルトガルは南の方に行きましたが、北方を探ったのは 主としてフランスとイギリスで、「北方領土」獲得競争も この2国の争いになりました。
フランス国王が派遣してセントローレンス川の探検を行なったジャック・カルティエなどの名が知られており、「ヌーベルフランス」の領有が宣言されました(1534)。

それから約200年の間、北アメリカにおけるフランス領土は イギリスを圧倒する勢力になっていました。
しかし18世紀になるとスペイン継承戦争を機に イギリスへの風が吹きはじめ、1713年のユトレヒト条約によって ニューファンドランドなどのフランス領がイギリス領になりました。

1756~1763年の七年戦争も 元々はヨーロッパでの争いですが、北アメリカやインドでも英仏間の植民地戦争が行なわれました。
イギリスはこちらに力を注ぎました。フレンチ・インディアン戦争と呼ばれる北米での戦いでは、フランスの重要拠点のケベックが 奇襲されて降伏し、1763年のパリ講和条約によって「ヌーベルフランス」は 230年で幕を閉じました。

しかし、奇妙なことに この条約で「サンピエール・ミクロン」だけがフランスに戻されたのでした。
フランス漁民の避難港としての用途制限が付けられた領地のようです。

「サンピエール・ミクロン」が関係した「北方領土・ヌーベルフランス」の話はこれで終りなのですが、1776年にイギリスから独立したアメリカ合衆国との関係で、北米のフランス領土がもう一度登場します。
しかも、小さな「北方二島」、サンピエール・ミクロンと違って、超大物です。

それは、ジェファーソン大統領の時代に実現した「ルイジアナ購入」でした。売り主はナポレオン。

聖王ルイ9世に由来する地名・セントルイスからもわかるように、ミシシッピ川の西にはフランスの植民地がありました。ここは七年戦争でフランスが敗れた結果 スペイン領になっていたのですが、1800年にナポレオンが取り戻していました。

独立して日の浅いアメリカにとっては、スペイン領ならば問題ないが、強国のフランス領となると心配です。
特に物流拠点である河口のニューオリンズを手に入れたいと考え、交渉してみました。
ところが、意外にもフランスはルイジアナ全部を売ってもよいと言い出し、1803年に 210万km2以上の広さを持つルイジアナ全部について 1500万ドルで売買成立。破格の安い買い物でした[77028]

ナポレオンは、いずれイギリスと戦う覚悟であり、戦争開始でルイジアナを奪われることを防ぎ、米仏関係も改善しておくことを考えたのではないかと想像されます。
[92847] 2017年 5月 8日(月)19:49:09hmt さん
フランス大統領選挙で39歳のマクロン氏勝利
都道府県市区町村ではないので、もちろん 若年で当選した首長の一覧の対象外ですが、参考までに記録しておきます。
日本経済新聞

これで、欧州連合(EU)[41218]から 中核のフランス離脱という「まさか」の動きは、とりあえず阻止。
[92844] 2017年 5月 7日(日)15:16:46【1】hmt さん
諸説あり
BS-TBS 諸説ありという番組で 地震予知は本当に不可能なのか というテーマが取り上げられていました。

気象庁の「地震予知」に関する見解は、「直前に予知できるほど現在の科学技術が進んでいない」、つまり「できない」としている。(中略)通信工学のスペシャリストが開発した、世界で注目される画期的地震予知技術とは?(後略)

紹介された3説の中から、私が関心を抱いた「電離圏異常検知」という技術を紹介します。
実はこの先生【梅野健・京都大学教授】の専門は地震学ではなく、物理統計学分野を名乗っています。

主なオリジナル研究例の中に、「相関解析による大地震直前の電離圏電子数異常検知法」が挙げられていますが、地震については言わば「シロウト」でしょう。
だから地震発生のメカニズムには全く触れていません。

地中で既に開始し始めた岩石の破壊を いち早く情報として捉え、大きな揺れが来る前に人々に知らせる。

大地震の前に動物が見せるという異常行動。
いわばこれと同じようなことを情報技術によって実現しようとする。
このような技術であると私は理解しました。【あくまでも、個人的な感想です。】

私は知りませんでしたが、昨年秋に京都新聞などで報道され、大学の発表もありました。
マグニチュード(M)7以上の大地震の発生を、1時間~20分前に予測できる可能性のある手法を、京都大情報学研究科の梅野健教授や大学院生の岩田卓也さんのグループが開発した。震源域の上空の電離圏の異常を、国土地理院のGPS連続観測網「ジオネット」のデータを用いて検知する手法で、米国地球物理学連合の学会誌で30日発表する。

京都大学研究成果 2016/10/3

地震は複雑かつ多様な破壊現象だから、予知するのは現状では困難…
などと逃げることをせず、既存のGPS観測データを上手に利用すれば、その解析法を開発するだけで、これだけの成果が得られる。
これは素晴らしい目の付け所だと思います。

電離圏での電子数異常は、熊本地震発生の1時間ほど前からも観測されているとのこと。産経WEST

前兆となる異常発見から大揺れを予想し、警報を出すまでの時間的関係。
地震の種類・規模、太陽フレアなど外的な撹乱要因など、解決すべき問題は多々あるとは思います。
それでも百発百中ではない天気予報を頼りにして生活している私達が、地震予報も利用できるようになる日がいつか来そうだ。
このような期待を抱かせる「お話」を記してみました。
[92843] 2017年 5月 7日(日)12:45:40hmt さん
C県厳木町
[92841] 白桃さん もうすぐ100年
ましてや、C県がスグ判るとなると、危険人物、サ行変態活用者です。

B県梼原(ゆすはら)村、D県頴娃(えい)村など 特徴のある地名で覚えがある県 と違い、C県は判りませんでした。
唐津町 13,144人を抑えて2位から5位までに並んだ4つの村。その背景が気になったので、ちょこっと調査しました。

最初に調べたのは 5桁の人口を支えた産業です。
相知(おうち)・北波多(きたはた)・厳木(きゅうらぎ)の各村は東松浦郡、北方(きたがた)村は杵島郡の所属であり、いずれも炭鉱町でした。
北波多村については、唐津焼発祥の地でもあるようです。

このプロセスで気がついたのが、難読地名【サ行変態地名?】です。ピカイチは「厳木」。
唐津市のサイト内に紹介ページがありました。

「唐津市厳木町うつぼ木」という地名がありますが、コピペにより元の漢字表記を記すべく試みたら、プレビューで正しく出ません。
唐津市が使っていた漢字【竹冠に巻】が原因と思われるので、コピペを中止し、これが二重の難読地名であることを指摘するに止めておきます。
[92833] 2017年 5月 4日(木)12:00:04【1】hmt さん
Re:オーナーがいないと、”せがない”のぉ~
グリグリさんは 2017/1/29の[92658]で 次のように記しておられます。
仕事がバタついているのと腰痛の悪化で、この一週間、自宅ではほとんどPCを開いていませんでした。

2017/2/4の5件【92677-92682】の後は 落書き帳への投稿がなく、3ヶ月にもなります。
メンバーの皆さんから、気になるという声が聞かれるようになったのも、御尤もなことと思います。記事

落書き帳記事を通じて近況を知りたいと思うのは 私も同様なのですが、何かの事情でそれが実現できないのでしょう。

積極的発言はありませんが、水面下メンテナンスは 下記事例のように継続を感じることができます。
落書き帳への本格的復活が1日も早いことを期待しながら、お待ちしましょう。

2017/2/23 メンバー紹介ページ更新【定期的な完全自動更新ではないものと推測】
2017/3/2 面積データ更新【国土地理院発表は2017/2/20】
2017/3/2 プレビューの不具合【[92731]スナフキんさん】への対応:少なくとも3/5には解決していた。
2017/3/10 都道府県データランキング 4件追加
2017/4/5 メンバー紹介ページ更新
2017/5/3 メンバー紹介ページ更新

憶測ですが、このような経済ニュースが関係しているのかも?
[92811] 2017年 4月 29日(土)14:58:04hmt さん
栃木県下都賀郡桑絹村の 1960年村長選挙
[92809] 伊豆之国さん
[91787] 山野さん
立候補締め切りまでに届出を行なった人数267人、最終的な立候補者202人で、まともな得票を得たのは3人だけ。
190人は「0票」という村長選挙には驚きました。

部外者ながら、最初に気になったのが、現在の町村長選挙では 50万円となっている供託金です。
調べてみたら、1960年当時の制度では 供託金不要で、1962年に 2万円になったようです。
大量立候補という異常な行為の背景には、供託金没収がない当時の制度があったのでした。

それはさておき、昭和合併で桑村と絹村とから成立した「桑絹村」という自治体名には関心をそそられます。
現在の小山市の町名には「桑」も「絹」も存在しないが、「桑・絹地区」という呼び方は残っているようです。
小山西高校のページに掲載されたふるさとの地名

結城紬(ゆうきつむぎ)で知られる茨城県結城市と隣接したシルク産業で栄えた地域ですが、特に絹村は結城市の中心市街に近いことや結城市に問屋が密集している結城紬の生産地であることから、生活や産業において結城市との非常に強いつながりを持つ地域であったとされます。

昭和合併の際も、絹村としては結城市への越境編入を望んだが、栃木県に意向でとりあえず桑絹村を作り、その後で分村・越境合併という手筈を承諾。
ところが、栃木県が分村を認めなかったことから、対立→大量立候補事件へと進展したようです。

[91787]のリンク先 選挙ドットコムから事件の発端を引用します。
しかし、合併をしないと国や県からの補助金がなくなる事や栃木県がとりあえず桑村と合併し、その後に結城市合併派の地区だけで分村して新しい村を作り、この村が結城市と越境合併をするという形にすると発言したことで桑村との合併が決まり、1956年に両村は合併して桑絹村が誕生しました。しかし、栃木県が前言を撤回して分村を認めないとしたことで、結城市合併派地区は桑絹村との同化を拒否。村政と絶縁すると宣言し、村議が辞職したり、村の農協から脱退して預金を全額引き出したり、地区の消防団が他の地区の消火活動をしないと宣言したり、果ては納税拒否という事態にまで発展しました。

参考情報などを収録した寄稿者のブログも付けておきます。

「成立しなかった合併情報」の対象は2000年以降です。県境の事例は五霞町と幸手市などが収録されています。
今回の絹村と結城市との越境合併不成立事例は、昔のことであり、合併協議会レベルにもなっていないと思われるので、もちろん対象外です。

しかし、この事例は「県境の壁」を越えることの困難を示す貴重な事例の一つであるように思われます。
あえて落書き帳に記録しておきたいと思いました。
そう言えば、実現しなかった県境変更の事例は[79754]でも記載。1955年熱海市泉地区

参考までに、昭和合併時代に成立した越境合併は、廃置分合5件+境界変更3件=8件でした。県境の変更
[92790] 2017年 4月 14日(金)19:15:48【1】hmt さん
六郷の七辻
[92747] リトル さん 「七差路」72時間
[92789] Takashi さん

大田区のページに記されていた所在地は、次のようになっていました。
大田区南蒲田二丁目、東六郷一丁目、南六郷一丁目ほか

交差点なので町字名の境界になっているのはわかります。
しかし、「ほか」と書かれると、あと幾つの町名があるのか? と気になります。
mapionで確認した限りでは、省略されているのは東側の 萩中一丁目 だけのようでした。

気にし始めると、この七辻の由来や旧地名も気になります。
知の冒険・珍スポットにあった「七辻の由来」の説明板。
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大正六年から十年の歳月をかけて行なわれた耕地整理によって完成したもので、そのころは、荏原郡六郷村子之神と呼ばれ、【水田と果樹園が広がり】春には花見客でにぎわったという。
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なるほど、明治22年の町村制で成立した六郷村の耕地整理によって 七辻が作られ、昭和になると六郷町を経て1932年の 「大東京」合併[74867] で東京市に編入されて都市化が進行。戦後になると蒲田区から大田区へ。という概略の動きは理解できました。

上記ページに従って、便宜的に 東から来る比較的大きな道を1とし、左回りに7まで付番すると、2→5と4→7が一方通行です。現在の大田区町名は萩中一丁目(7-1-2)、南蒲田二丁目(2-3)、東六郷一丁目(3-4-5-6)、南六郷一丁目(6-7)。

少し広域を眺めると、七辻の南西側には京浜急行の雑色駅を中心として 南六郷・東六郷・仲六郷・西六郷という町名が現存しています。
【追記】
雑色(ぞうしき)という言葉は、公家官職一覧の中に、蔵人所(令外官)の中に記されています。本来は天皇家の家政における庶務を扱う役職のようですが、都を離れた関東の地名として使われているので、地方官に仕える職など、別の意味に転用された用法に由来するのでしょう。
この表には、もちろん サイトウさん[92775][92783]に関係する斎院司に属する官職も記されています。【追記終】

[35798]では、「六郷(ろくごう)村の由来には、合併した村域の八幡塚、高畑、古川、町屋、道塚、雑色の六郷を総称したとする説もある」と記しましたが、明治合併で六郷村になったのは5村であり、西六郷の北に位置する旧・道塚村だけは矢口村になりました。

いずれにせよ、六郷の名は「六郷川」により現代にも伝えられており、戦後は西六郷小学校に赴任した鎌田典三郎教諭が設立した西六郷少年少女合唱団でも知られるようになりました。

七辻があるのは六郷神社の北東の方角で、説明板にあった「子【北】之神」と少し違います。

以上、七辻が話題になった機会に、東京の「六郷」について記しましたが、検索の結果、全国にある地名であることを知りました。
[92786] 2017年 4月 11日(火)19:45:52hmt さん
サウスジョージア島(2)フォークランド紛争 と シャクルトンの南極探検
[92785]に続く話題は、生物の楽園から離れて、この島で 人間の引き起こした騒ぎを少々記します。

一つは 35年前のフォークランド紛争。
フォークランド諸島の領有権を主張するアルゼンチンが、1982年に起こした戦争です。
侵攻は、放置されていたサウスジョージア島の捕鯨工場解体を名目にアルゼンチン人が入国手続を無視して上陸し、居座ったと3月から開始。
その後、アルゼンチン軍はフォークランド諸島に上陸し、一旦は圧倒的な兵力で その全域を手に入れました。

しかし、イギリスが本腰を入れて反撃を始めると これが成功し、6月にはイギリスの勝利で戦闘終結。
アルゼンチンのガルチェリ大統領は敗北の責任を問われ、大統領及び陸軍総司令官を辞任し失脚しました。
イギリス側にも損害はありましたが、「鉄の女」と言われた マーガレット・サッチャー首相の人気は急上昇。
両国は外交関係を回復していますが、領有権の主張では互いに譲っていません。

もう一つは、約100年前のシャクルトンの南極探検です。

同じイギリスのスコット探検隊は、犬ぞりを利用した アムンゼン隊に遅れながらも、1912年1月に「南極点到達」。
しかし、その帰路は 悲劇的な遭難で終りました。

「南極大陸横断」を目指したシャクルトン探検隊は、初期目的の「大陸横断」を果たせず、エンデュアランス号を失うなど 多くの危機にも見舞われましたが、それを乗り越えて生還しました。

このシャクルトン隊生還劇で重要な役目を果たしたのが、当時のサウスジョージア島にあった捕鯨基地でした。
[92785]冒頭2番目の地図が使われている Wikipedia「帝国南極横断探検隊」に詳しい記述があるので、関心のある方はそちらをどうぞ。

ポイントだけ記すと、南極のウェッデル海探検中、1915年にエンデュアランス号を失い、イギリスに戻るべく苦闘中のシャクルトン。救命艇・ジェイムズ・ケアード号に6人だけが乗り込み、捕鯨船に出会える可能性のあるサウスジョージア島を目指して「吠える 50度」の海を1500kmの航海に乗り出したのが1916年でした。風をかなり避けられる南岸のキング・ハーコン湾に接岸し、氷河に覆われた山脈を横断して サウスジョージア島 北岸の捕鯨基地・ストロムネスに到達。
その後、南極半島先端近くのエレファント島に残してきた隊員22名の救出にも成功しました。

「生還の保証なし」という”求人広告”[74153] で有名な シャクルトンは、1922年に サウスジョージア島を訪れた際に急死し、南極の入口とも言えるこの地に葬られました。
[92785] 2017年 4月 11日(火)19:21:18hmt さん
サウスジョージア島(1)生物の楽園
国立公園・国定公園のシリーズが一段落しました。
直接の関係はないのですが、ここで海外の地理に目を向け、鳥などの生き物にも関係した記事を記します。
その対象が、タイトルに記した「サウスジョージア島」です。

サウスジョージア島? どこだ? 
「ジョージア」だけならば、落書き帳全記事を検索すると何件もあります。
ソ連時代からの「グルジア」を英語式に変更したコーカサスの国名。
缶コーヒー。そしてアメリカ合衆国のジョージア州。
その中に埋もれていましたが、ありました。[10526] 太白さんの「海外領土」。
英国領 South Georgia and the South Sandwich Islands 南ジョージア・南サンドイッチ諸島
南緯 54度30分 西経 37度00分 南アメリカ

日本とは地球の反対側にあって馴染みのない場所ですが、南米大陸の先端・フェゴ島から東に進むと、フォークランド諸島、サウスジョージア島、その先のサウスサンドイッチ諸島で南に向きを変え、西のサウスオークニー諸島を経て南極半島の先端につながるという弧状列島の一員です。

地図で見るように、2005年の落書き帳で話題になった ブーベ島や トリスタン・ダ・クーニャ島と同様の 南大西洋の島々に属する島です。
もう一つの地図は、Wikipediaの「帝国南極横断探検隊」で使われている地図です。
上方【南大西洋】に伸びている青線の先Grytviken【スゥエーデン語の油壺】という捕鯨基地が設けられていた島がサウスジョージア島です。
シャクルトン南極探検隊のことは[74153]で触れましたが、この捕鯨基地があったおかげで生還することができたのでした。

サウスジョージア島の面積は 3756km2もあり、択捉島よりも大きな島です。1775年キャプテン・クックにより発見され、20世紀にはノルウェーの会社などによる捕鯨基地が建設されたが、1966年以降は研究者以外の定住者はないようです。

この島の自然に関するタネ本は 半年ほど前のNewton(2016-9)に掲載された記事で、「生物の楽園」と言われるように、数十万羽のキングペンギンを始めとする動物たちが海岸を埋め尽くす姿は壮観です。
島の動物たちや南極海のクジラを頂点とする生態系を支えているのは ナンキョクオキアミという小さな甲殻類。

この島がある南緯55度付近。そこは「大陸が存在しない緯度」です。見た目には、偏西風で西から東へと流れる海流が、大陸とぶつからずに南極大陸の周りを一周できそうです。正確には、同じ海水のまま一周しているわけではなく、大西洋などとの入れ替えがあるようですが…
世界で最も荒れる海として、航海者たちが「吠える50度、怒れる60度」という言葉で恐れた海域でした。

その中でも極め付きの海域。それは南米南端と南極半島との間のドレーク海峡を駆け抜けた海流が、前記 弧状に並ぶ島々や海嶺【スコシア弧】に衝突するスコシア海です。Google Earth

サウスジョージア島は、緯度こそフォークランド諸島とあまり変わらないものの、その付近の海は冷たい南極表層水(1~2度)で覆われ、北からくる大西洋の水の海水温(夏ならばフェゴ島周辺で6~7度)とは大きく異なります。

両者の間に形成されるのが「南極前線」。南極前線の北のフォークランド諸島では牧草地が広がりますが、サウスジョージア島は氷河で覆われ、時には南極大陸からの氷山も流れ着く場所です。

このように陸上の気候条件は厳しい地ですが、サウスジョージア島の海では 豊富な栄養を含む深層海水が湧昇流として水面近くにもたらされます。ここは ナンキョクオキアミが最も高密度に群れる海域となり、この豊富な餌により育てられた動物群が繁栄することになりました。

人が生活するには厳しい南極気候の地でありながら、意外にも「生物の楽園」が形成された「奇跡の島」。
それは、このような仕組みによるもののようです。

キングペンギンなど各種ペンギンやミズナギドリ、ウミツバメなどの鳥類、ミナミゾウアザラシ、カニクイアザラシ、ナンキョクオットセイ、掃除屋のオオフルマカモメ、そして大型のヒゲクジラ類。

それだけでなく、人間によって持ち込まれた外来動物も増えてしまいました。侵入者の代表はネズミでした。
捕鯨業者が食料として持ち込んだレインディア(カリブー)も数千頭に増殖し、問題になっていたが、2015年に駆除成功と伝えられます。
[92783] 2017年 4月 9日(日)15:02:43hmt さん
Re:サイトウさん
[92775] 伊豆之国 さん
「サイトウ」と言う苗字には、最も代表的な書き方で見ると、「斎藤」と「斉藤」(旧字体ではそれぞれ「齋藤」「齊藤」)の2つにまず大きく分けられます。「斎」と「斉」は本来別の字なのですが、混用されることが多く…

旧字体の頭を略記した新字体は ともかくとして、「斎」【サイ】とは別字である「斉」【セイ】を使いながら、読みとしては「サイトウさん」である方が多い新潟県など、注意を要する苗字ですね。

今回の話題に関連して ふと思い出した人物が、子供の頃に五月人形で見た「斎藤別当実盛」です。
馬上姿の人形でしたが、手にしていたのがダイコン。何か逸話があるはずと探しましたが、発見できませんでした。

探しているうちに見たのが、「ニッポン旅マガジン」に収録されている 斎藤さんのルーツを探せ!というページです。
斎藤姓はその藤原利仁の子、斎宮頭叙用(さいぐうのかみのぶもち=藤原叙用)が斎藤と称したことから始った。
つまり斎藤は、伊勢神宮の役職「斎宮頭」+藤原氏の「藤」=斎藤で、藤原北家利仁流の斎藤氏の誕生となる。

芥川龍之介小説『芋粥』は、外国貿易を支配した藤原利仁の敦賀館を舞台とした話のようですが(今昔物語)、この家は越前を本拠として北陸に勢力を広げたとのこと。
[92775]でも引用されている ページ に掲載された県別の塗り分け図を見ると、伊勢付近と共に北陸の青色【斎藤】が目立ちます。そして信越の赤色【斉藤】を飛び越えて関東・東北へと青色【斎藤】が広がっています。

旅マガジンに戻ると、「関東の斎藤さんは熊谷がルーツ」と書いてあり、越前から武蔵国長井庄【熊谷市妻沼】に移住した斎藤実盛が登場します。

斎藤実盛は 熊谷の偉人とされているのですね。800年以上前の平安時代末期、源氏や平家などの武士が勢力を伸ばしつつあった時代です。誰が勝者となるか先が読めません。
藤原姓の実盛は 最初 源氏の配下でしたが、結局は平家に仕えることになり、武蔵国北部の幡羅郡長井庄を支配。1179年妻沼聖天山を開いた頃が絶頂期でしょう。

清盛の死後、落ち目になった平家を支える役目になり、富士川の戦いを前に 東国武士の勇猛さを平家軍に伝えました。これが逆効果で、「水鳥の羽音に驚き全軍敗走」の遠因になったとの説もあるようです。

1183年、倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲軍に大敗し、追撃された平家軍が迎えた篠原の戦い(加賀市片山津温泉付近)。『平家物語』は 総崩れとなった平家軍の中で戦死した実盛の奮戦を伝えています。
勝者の木曽義仲が 老武者の首を洗ったところ 白髪が現れ、幼児の駒王丸時代に木曽に逃してくれた恩人の実盛であったことを確認し、涙しました。
この敗戦により、平家は都落ちすることになりました。

約500年後の元禄2年(1689)、篠原の古戦場を訪れた旅人の詠んだ一句
むさんやな 甲(かぶと)の下のきりぎりす    芭蕉

熊谷市の年表によると、鎌倉時代になってからの1193年、源頼朝が妻沼聖天を訪れた際に、実盛の子は別当寺の建立を願い出て許され、1197年に歓喜院を創設。

[92780] 伊豆之国 さん 横浜市神奈川区斎藤分町六角橋 の近くなのですね。

[92781] N さん はまれぽ
要旨:『横浜の町名』(1982横浜市民局刊, 1996改訂)によると、斎藤兼実という武士が仏門に入り、善龍寺を開く。境内には、縁起が書かれた石碑(1987)が建てられている。石碑によると、真言宗の古寺を1253(建長5)年に浄土真宗に改宗した人物こそが斎藤兼実(=真量法師)。斎藤式部入道?

これだけでは数十年という時間と、地理的ギャップがあり、系図で裏付けないことには、斎藤実盛と斎藤兼実との関係は不明のままです。
しかし「実」という字と、同じ武蔵国内という共通点があります。
もしかしたら、約800年前の「斎藤さん」は、つながるのかもしれない。そんなことを妄想しています。
[92774] 2017年 4月 4日(火)18:43:47【2】hmt さん
近畿と北陸との間の関所 愛発(あらち)の関
[92773]で紹介された鉄道駅名改称の要望。
難読でもあり、知る人の少ない歴史地名「愛発」を 駅名として復活するには 困難があることでしょう。
それはさておき、この機会に伊豆之国さんの[87452]などを収録した記事集を紹介しておきます。

畿内から北陸へ
【1】URLの誤記を修正
【2】タイトル修正
マガジンで使った古代国家時代の用語「畿内」でなく、近江を含む「近畿」を使うことに改めました。
その理由は、[87493]で説明。
[92772] 2017年 4月 3日(月)19:32:59hmt さん
国立公園(8)ラムサール条約関連
2週間前の[92746]と同じような文章で始めますが、4月2日のテレビで 熊本 御輿来(おこしき)海岸が紹介されていました。

私はこの珍しい地名を知りませんでしたが、宇土半島北岸に位置し、有明海の大潮(干潮)と日の入りとが重なる時に現れる神秘的な砂紋が 絶景として知られているようです。
ミサゴや、絶滅危惧種に指定されているクロツラヘラサギなど鳥類も登場していました。

しかし、現在のところ 特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約【ラムサール条約】や、国立公園・国定公園については、未指定と思われます。
熊本県の 三角大矢野海辺県立自然公園には指定されており、日本の渚百選、日本の夕日百選の選定地でもあります。

有明海をずっと北に進むと、シギ・チドリ類の飛来地である広大な 荒尾干潟があり、東よか干潟(佐賀市東与賀町)と肥前鹿島干潟とを加えた3つの干潟がラムサール条約湿地になっています。国立公園・国定公園にはなっていません。

ラムサール条約は 1971年に締結され、その正式名称が示す対象は 「水鳥を主役とする生態系である湿地」です。
日本の加入は 1980年で、「釧路湿原」が第1号指定地でした。
その後の動きを見ると、湿原だけでなく、干潟・藻場・サンゴ礁・浅海域【慶良間諸島】・地下水系【秋吉台】・人工遊水地【渡良瀬遊水地】なども対象に含む「水辺の生態系」の保全という観点に拡大されているようです。

串本沿岸海域。これも 湿地ではなく 「海」そのもの ですが、サンゴ礁北限から かなり北に外れた海域でありながら 高密度のサンゴ群落を形成しており、2005年にラムサール湿地?として登録されています。

上記 串本のページは、「ラムサール条約登録湿地関係市町村会議」のものです。
TOPページは、登録年順リストと配置図になっており、リンクによって 解説文に進むことができます。

例えば みやこ♂ さんが 湿原コレクション の中で提供している 落書き帳記事集の対象である 06_別寒辺牛湿原」については、解説文に「保護の制度:国指定鳥獣保護区特別保護地区」と記されています。

前記・串本のページでは「保護の制度:国立公園海中公園地区・普通地域」となっており、両者の違いから国立公園指定の有無を判断できます。
コウノトリの野生復帰で知られる 39_円山川下流域・周辺水田には、「国立公園特別地域、河川区域」とあり、「山陰海岸」から少し内陸に入った所にも、国立公園区域があることがわかります。

番号とラムサール条約登録年との関係
 1980年:01  1985年:02  1989年:03  1991年:04  1993年:05-09  
 1996年:10  1999年:11  2002年:12-13  2005年:14-33  
 2008年:34-37  2012年:38-46  2015年:47-50

落書き帳を KW=ラムサール条約 で検索すると、驚くほど多数の記事があります。言うまでもなく 十番勝負に4回も登場したからですが、度重なる追加指定や廃置分合の結果として、同じ問題でも その都度該当する市が変化する という妙味が 出題者のお気に召した結果なのでしょう。[68312] 問八 「まさかまたラムサール?」

2005年には一挙に 20件もの指定がありました。
1986年 阿蘇くじゅうNPへの改称[92754]より前の 1978年に NHK「みんなの歌」で放送された『坊がつる讃歌』。
山岳地域に形成された中間湿原としては、国内最大級の面積を有し、我が国を代表する湿地のタイプ
と記された 21_くじゅう坊ガツル・タデ原湿原も、2005年にラムサール湿原として登録されました。
湿原の植生を維持するために、春の野焼きが行なわれており、これは 45_渡良瀬遊水地なども同様です。

地名コレクション。『湿原』では地図リンク有効。『希少地名(一般)』の「坊がつる」は地図が出ません。

今回の記事は国立公園(および国定公園)のシリーズなので、次のリストを作りました。

国立公園・国定公園指定地内のラムサール条約湿地

No.自然公園名Ram条約湿地名所在地備考
90利尻礼文サロベツNP29サロベツ原野北海道J豊富町/幌延町
89網走QP31濤沸湖北海道K網走市/小清水町
87阿寒NP14阿寒湖北海道M釧路市
86釧路湿原NP01釧路湿原北海道M釧路市+3
84暑寒別天売焼尻QP32雨竜沼湿原北海道A雨竜町
80大沼QP42大沼北海道F七飯町
69佐渡弥彦米山QP10佐潟新潟市西区
67尾瀬NP28尾瀬群馬県片品村など
66日光NP27奥日光の湿原日光市戦場ヶ原など
63上信越高原NP48芳ヶ平湿地群日光市
54中部山岳NP43立山弥陀ヶ原・大日平富山県立山町
51越前加賀海岸QP08片野鴨池加賀市
51越前加賀海岸QP41中池見湿地敦賀市
48愛知高原QP44東海丘陵湧水湿地群豊田市矢並湿地など
40吉野熊野NP22串本沿岸海域和歌山県串本町
37若狭湾QP23三方五湖福井県若狭町/美浜町
33琵琶湖QP09琵琶湖大津市など
32山陰海岸NP39円山川下流域・周辺水田豊岡市
30瀬戸内海NP40宮島廿日市市厳島の南西部
26秋吉台QP15秋吉台地下水系山口県秋芳町/美東町
14阿蘇くじゅうNP21くじゅう坊ガツル・タデ原湿原竹田市/大分県九重町
7屋久島NP33屋久島永田浜鹿児島県屋久島町
2慶良間諸島NP20慶良間諸島海域沖縄県渡嘉敷村/座間味村
1西表石垣NP24名蔵アンパル石垣市アンパル(網張)
[92767] 2017年 3月 31日(金)17:43:39hmt さん
国立公園(7)国立公園・国定公園一覧表 4 新潟県・東北6県・北海道
「NP・QP一覧表」は第三回までで 那須岳-燧ヶ岳-妙高山を結ぶ線のあたりまで来ました。およそ北緯37度線の近く、国立公園名【数字は行番号】で言うと  66.1日光NP那須地区-67尾瀬NP-62妙高戸隠連山NPです。
第四回は およそ北緯37度に沿った県境線【新潟県と福島県との南限線】より北にある NP=国立公園 QP=国定公園 に進みます。

陸中海岸NPから拡張・改称した「三陸復興NP」については、既にこのシリーズの第1回[92742]で記しました。

[92757]では ちょっとだけ湿原に触れました。今回の一覧表には「釧路湿原NP」を始めとして湿原関連の NP・QPがあるので、ラムサール条約についてのコメントも考えました。

しかし、現存する数で 34の国立公園と 56の国定公園 合計90に 過去の名称を加えた一覧表の完成を優先させます。

広い北海道については、14総合振興局・振興局一覧の順に A~Nの文字を使い、その位置を示すことも試みました。
【道央】 A:空知 B:石狩 C:後志 D:胆振 E:日高 
【道南】 F:渡島 G:檜山 
【道北】 H:上川 I:留萌 J:宗谷 
【道東】 K:オホーツク L:十勝 M:釧路 N:根室

北海道支庁設置条例(1948年の旧条例)では 石狩 渡島 檜山 後志 空知 上川 留萌 宗谷 網走 胆振 日高 十勝 釧路 根室 という順でしたが、条例と行政組織規則の規定を併せた 現在の名称と所管区域 は 上記のように改められています。[71706]

National Park・Quesi-national Park 一覧表 4 新潟県・東北6県・北海道

No.名称---変遷, 注釈など日付面積ha都道府県
68QPQP越後三山只見QP八海山などと奥只見1973/5/1586129新潟 福島
69QP佐渡弥彦米山QP【米山】拡張改称1981年29464新潟
69.1QP佐渡弥彦QP→1981拡張改称1950/7/27
70NPNP磐梯朝日NP1950/9/5186389山形/福島/新潟
71QPQP蔵王QP1963/8/839635山形 宮城
72QPQP鳥海QP1963/7/2428955秋田 山形
73QPQP栗駒QP1968/7/2277122岩手 宮城 秋田 山形
74NP三陸復興NP【南三陸金華山】QPを編入2015/3/3128537宮城/岩手/青森
74.1三陸復興NP【種差海岸など】編入/改称2013/5/24
74.2QP南三陸金華山QP→2015編入1979/3/30
74.3NP陸中海岸NP1955/5/2
75QPQP早池峰QP1982/6/105463岩手
76QPQP男鹿QP1973/5/158156秋田
77NP十和田八幡平NP【八幡平】拡張改称1956/7/1085534青森/秋田/岩手
77.1NP十和田NP1936/2/1
78QPQP津軽QP1975/3/3125966青森
79QPQP下北半島QP1968/7/2218641青森
80QPQP大沼QP1958/7/19083北海道F
81QPQP日高山脈襟裳QP1981/10/1103447北海道EL
82QPQPニセコ積丹小樽海岸QP1963/7/2419009北海道C
83NPNP支笏洞爺NP1949/5/1699473北海道BCD
84QPQP暑寒別天売焼尻QP1990/8/143559北海道BI
85NPNP大雪山NP1934/12/4226764北海道HL
86NPNP釧路湿原NP1987/7/3128788北海道M
87NPNP阿寒NP1934/12/490481北海道MKL
88NPNP知床NP1964/6/138636北海道KN
89QPQP網走QP1958/7/137261北海道KN
90NP利尻礼文サロベツNP【サロベツ】QPの拡張改称1974/9/2024166北海道J
90.1QP利尻礼文QP→1974拡張改称NP1965/7/10
[92766] 2017年 3月 29日(水)18:14:48hmt さん
国立公園(6)東海自然歩道と沿道の国定公園など
[92760] k_ito さん
東海自然歩道との関連が気になりました。
沿道にあたる国定公園の指定もちょうどその頃です。関連させた事業なのでしょうか。

国定公園の調査中に見た資料の中にも「東海自然歩道」という言葉は度々出て来ました。
両者の関連は私も気になっており、これを機会に立ち入ってみました。

東海自然歩道を始めとする長距離自然歩道も環境省の管轄です。従って、国定公園などの自然公園と 全く無関係ということはないと思います。

最初の資料は、東海自然歩道連絡協会の 東海自然歩道MAP

コース両端が同日(1967/12/11)に指定された国定公園であり、その後3年間で沿線に6国定公園が指定され、東海自然歩道の整備期間(1970-1974年度)へと続いたことは、ご指摘の通りです。

そこで、このMAPに示された東海自然歩道の厳選コースを見ると、高尾の次は相模湖付近となっていました。
hmtの出身地から少し離れていますが、落書き帳ではお馴染みの「津久井」の一部です。

東海自然歩道の神奈川県内コース。簡略図を見ると、南側に丹沢大山国定公園が記されていますが、両者の関係は不詳です。大きな図にも、自然公園の境界線が描かれていません。

そこで、神奈川県内の自然公園を見ます。相模湖は「県立陣馬相模湖自然公園」(1983/12/16指定)となっており、国定公園の指定地域外であることが確認できました。

このことにより、西日本においては 東海自然歩道の整備に合わせて その沿道で複数の国定公園が誕生したのは事実としても、東海自然歩道の事業は「その沿道のすべてを国定公園化する」というほど「直接に関連させた事業」ではない ことがわかりました。では 国定公園の予備軍的なもの迄含めて、沿道を自然公園化する事業なのか? そのあたりは不詳です。

[92760]で作成していただいた表は、国定公園の指定日順になっています。
地理的感覚からすると、ルート順がわかりやすいと思われるので、東海自然歩道沿道の 11国定公園に富士箱根伊豆国立公園を加えた12自然公園について、東から西への順番に並べ直してみました。

それぞれの自然公園について、1箇所ずつですが、QP or NP 地域内の地名と、東海自然歩道コースガイドのイラストをリンクしておきます。
丹沢大山QPの例で説明すると、丹沢山塊の最高峰・蛭ヶ岳の北にある袖平山付近を通過するルートを示します。
地形図 では少し西に東海自然歩道という注記が見え、少し東の 1433mは 東海自然歩道全コースの最高地点です。

東海自然歩道沿道の NP・QP【東から西へ】 と 公園内コースの一部

58 明治の森高尾QP 高尾山 
57 丹沢大山QP 袖平山
55 富士箱根伊豆NP 青木ヶ原樹海
49 天龍奥三河QP 鳳来寺山
48 愛知高原QP 猿投山
46 飛騨木曽川QP 犬山
45 揖斐関ヶ原養老QP 養老
44 鈴鹿QP 湯の山
42 室生赤目青山QP 室生寺【注】
36 大和青垣QP 三輪山
33 琵琶湖QP 比叡山
34 明治の森箕面QP 箕面

【注】有名観光地・室生寺の名を使いましたが、イラストでは室生口大野の駅が示されているものの、お寺の本体が見つかりません。キャンプ場の下あたりに隠れているようです。
[92757] 2017年 3月 27日(月)17:20:27hmt さん
国立公園(5)国立公園・国定公園一覧表 3 中部と関東
「NP・QP一覧表」第三回は 中部から関東の各都県に進みます。NP=国立公園 QP=国定公園。
表の中には NP NP と並ばずに、中間に変遷情報が記載されている国立公園がいくつかあります。
その中でも歴史ある観光地・「富士箱根」と「日光」の名を冠した2つのNPについて 最初に記します。

富士山というと国立公園の中でも「日本一の山」だと思ってしまいます。
しかし国立公園制度ができ、戦前に 12国立公園が作られた際、富士箱根は 3回に分けて指定された中で ラストグループ【1936年組】でした。

1936/2/1 内務省告示32号で指定された地域は富士山地域と箱根地域でしたが、戦後の1955年に伊豆半島に拡張されて 「富士箱根伊豆国立公園」と改称。
更に1964年に 東京都所管の伊豆七島QPを併合したが、名称は変わらず。
4区域からなる富士箱根伊豆NPの基礎情報

単純な拡張と それに伴う改称という「富士箱根伊豆」に比べて、日光・尾瀬地区の変遷はもっと複雑な事情があるようです。

日光NP 最初の指定である1934/12/4 内務省告示569号に記された区域分図縦覧役場を見ると 次のようになっており、日光地域だけでなく その北西にある尾瀬地域も指定されていることが分かります。
栃木県上都賀郡今市町/日光町/塩谷郡栗山村、群馬県利根郡片品村、福島県南会津郡檜枝岐村、新潟県北魚沼郡湯ノ谷村。正しくは湯之谷村のようですが、この程度の表記違いは しばしば告示の中に現れるので、気にしないことにします。

戦後になると1950/9/22 厚生省告示253号で 日光地区の北北東にある那須甲子・塩原・鬼怒川の温泉郷が追加指定されました。

このように拡大された「日光」国立公園についての議論は昔からあったようです。[29045]によると
昭和初期の日本山岳会の会報を見ると,当時は「奥日光の尾瀬」という言葉が当たり前のように使われていた

みやこ♂さんと違い この地域には詳しくありませんが、[29045][51625]などの尾瀬関係 落書き帳過去記事集から、自然風景地の保護とその利用という「二兎を追う」自然公園法が、尾瀬の扱いで転機にさしかかってきたことを感じます。
「二兎を追う」国立公園制度の中でバランスを取ろうとした政策が、保護に重点を置く「尾瀬NP」を 利用に重点を置く「日光NP」から分立させる という「かなりびっくり」[51584]の処置になったのではないか。
私は 2007年の「尾瀬国立公園」誕生を このように理解しました。

尾瀬分立後の国立公園変遷履歴を全国的に追うと、屋久島NPの分立(2012)、慶良間諸島NPの分立(2014)、妙高戸隠連山NPの分立(2015)と続いており、前2者は保護を重視する世界遺産がらみです。

尾瀬の大きな特色に湿原があります。そこで連想するのが 1987年に誕生した釧路湿原NPです。
最近も[92746]で ちょっとだけ言及しましたが、1980年に日本最初のラムサール条約登録湿地になったことが評価されたものと言われています。
尾瀬分立をもたらした国立公園行政の転機は、このあたりに端を発していたのかもしれません。

尾瀬NPに戻ると、その一部は新潟県に及んでいます。妙高戸隠連山NPも同様に、中部・関東に関係深いNPです。
この2NPは 当然のように今回集計の分に入れてあります。
しかし新潟県単独の「佐渡弥彦」や東北と関係するNP・QPは次回送りとしました。ご承知ください。

National Park・Quesi-national Park 一覧表 3 中部と関東

No.名称--変遷, 注釈など日付面積ha都道府県
45QPQP揖斐関ケ原養老QP1970/12/2820219岐阜
46QPQP飛騨木曽川QP1964/3/318074岐阜 愛知
47QPQP三河湾QP1958/4/109457愛知
48QPQP愛知高原QP1970/12/2821740愛知
49QPQP天龍奥三河QP1969/1/1025720長野 静岡 愛知
50NPNP南アルプスNP1964/6/135752山梨/長野/静岡
51QPQP越前加賀海岸QP1968/5/19794石川 福井
52NP白山NP←白山QP1962/11/1249900石川/岐阜/福井/富山
52.1QP白山QP→1962NP1955/7/1
53QPQP能登半島QP1968/5/19672石川 富山
54NPNP中部山岳NP1934/12/4174323富山/長野/岐阜/新潟
55NP富士箱根伊豆NP【伊豆七島】QPを編入1964/7/7121695静岡/山梨/東京/神奈川
55.1伊豆七島QP→1964NPに編入1955/4/1
55.2富士箱根伊豆NP【伊豆半島】拡張改称1955/3/15
55.3NP富士箱根NP1936/2/1
56NPNP小笠原NP1972/10/166629東京
57QPQP丹沢大山QP1965/3/2527572神奈川
58QPQP明治の森高尾QP1967/12/11777東京
59NP秩父多摩甲斐NP改称2000/8/10126259山梨/東京/埼玉/長野
59.1NP秩父多摩NP1950/7/10
60QPQP八ヶ岳中信高原QP1964/6/139857長野 山梨
61QPQP妙義荒船佐久高原QP1969/4/1013123群馬 長野
62NPNP妙高戸隠連山NP←上信越高原NPから分立2015/3/2739772新潟/長野
63NP上信越高原NP分立により妙高戸隠削除2015/3/27148194長野/群馬/新潟
63.1上信越高原NP【妙高戸隠】拡張1956/7/10
63.2NP上信越高原NP1949/9/7
64QPQP南房総QP1958/8/15690千葉
65QP水郷筑波QP【筑波山・加波山】追加1969/2/134956茨城 千葉
65.1QP水郷QP→1969水郷筑波QP1959/3/3
66NP日光NP←分立により尾瀬を削除2007/8/30114908栃木/福島/群馬
66.1日光NP【那須甲子 塩原 鬼怒川】1950/9/22
66.2NP日光NP【最初は尾瀬と日光】1934/12/4
67NPNP尾瀬NP←日光NPから分立2007/8/3037200群馬/福島/新潟/栃木
[92754] 2017年 3月 23日(木)19:32:23hmt さん
国立公園(4)国立公園・国定公園一覧表 2 四国・中国と近畿
本題の前に、[92746]阿蘇くじゅうNP に関係する補足です。
大分県の「くじゅう」については、日田盆地に集まる3川の一つ・玖珠川が久住山麓から西流しており、かつては 筑後川の本流とされていたことに触れています[91405]
杖立川記事では、その上流は田の原川迄しか記しませんでしたが、そのの小田川も「くじゅう連山」へと遡っており、杖立も「くじゅう」に発する水系に属していたのでした。
「ひらがな表記」の理由は、玖珠郡九重町<飯田村と竹田市久住町<直入郡久住町とがあるためでしょう。

飯田村と久住町の名は、1934/12/4の内務省告示571号で確認でき、阿蘇国立公園は その発足時から 久住山や中岳【九州本土最高峰】などを含んでいたことがわかります。
にもかかわらず、1986年の改称で国立公園名に「くじゅう」が入るまで、実に 51年9月以上を要しました。
秩父多摩に「甲斐」が追加[92743]される迄の50年1月よりも長い前例があったのでした。

本題の「NP・QP一覧表」の第二回は「四国・中国と近畿」としました。
環境省・近畿地方環境事務所の管轄地域は 滋賀・京都・大阪・兵庫・奈良・和歌山の6府県ですが、この表では 便宜上 三重県を含めた7府県としました。

「NP・QP一覧表」中での大物は「瀬戸内海NP」です。
陸域面積672km2は大雪山NPに遠く及びませんが、海域8370km2を含めると最大面積の国立公園です。
「1934年 国立公園第1号」の一つですが、最初の指定地は 備讃瀬戸付近の3県内に限られていました。

地図*で見るように、拡張前の瀬戸内海国立公園の東端は 小豆島の寒霞渓や岡山県の牛窓でした。屋島 直島 下津井 塩飽等を経て 西端は香川県の三崎と広島県の阿伏兎崎との間に境界線が引かれているようです。
* 日本交通公社編:観光と国立公園 S24 三省堂 の挿入図

そして、戦後 1950/5/18の 第2次指定により 淡路島周辺から周防灘の姫島に至る 陸上主要部が追加されました。
瀬戸内海NPは大拡張の結果、現在と近い姿になりました。
参考までに、告示に記されている9県の中から 適当に拾った地名を例示しておきます。
和歌山 加太/ 洲本 福良/ 鳴門/ 室津 赤穂 家島/ 日生 玉野 児島 寄島/ 坂出 琴平 善通寺/ 尾道 三原 瀬戸田 忠海 安芸津 安浦 御手洗 倉橋島 広島 五日市 厳島/ 麻里布 久賀 屋代 室津 上関 光 下松 徳山 防府/ 今治 宮浦 関前/ 姫島
同日の別告示で、それまで阿蘇NPであった高崎山が瀬戸内海NPに編入されたようですが官報未確認。

第3次指定は 1956年です。陸域が六甲山系主要部や国東半島で拡張された他に、紀淡海峡・関門海峡などの海域が指定されました。

国立公園指定地は、六甲地域に見られる 1971年以降の区域縮小 による変化もありました。六甲地域管理計画書10/75。別荘や奥池分譲地など 常住人口の多い六甲地域の特異性があるようです。

瀬戸内海国立公園に関係する県は 11府県に及んでいます。表の中に書ききれないので、ここに別記します。
陸域面積の多い順に 香川/兵庫/広島/愛媛/山口/岡山/大分/徳島/和歌山/福岡の10県。そして海域のみの大阪府。

National Park・Quesi-national Park 一覧表 2 四国・中国と近畿

No.名称-変遷, 注釈など日付面積ha都道府県
21NP足摺宇和海NPNPに変更 改称1972/11/1011345高知/愛媛
21.1足摺QP【宇和海】追加→1972NP1964/3月
21.2QP足摺QP1955/4/1
22QPQP石鎚QP1955/11/110683愛媛 高知
23QPQP剣山QP1964/3/320961徳島 高知
24QPQP室戸阿南海岸QP1964/6/16230徳島 高知
25QPQP北長門海岸QP1955/11/112384山口
26QPQP秋吉台QP1955/11/14502山口
27QPQP西中国山地QP1969/1/1028553島根 広島 山口
28QPQP比婆道後帝釈QP1963/7/248416鳥取 島根 広島
29NP大山隠岐NP【隠岐 島根半島 三瓶蒜山】改称1963/4/1035353島根 広島 山口
29.1NP大山NP1936/2/1
30NP瀬戸内海NP六甲など一部を解除して縮小1971-19936724210県【本文】
30.1瀬戸内海NP【高崎山】を阿蘇NPから編入1956/5/1
30.2瀬戸内海NP【六甲・国東半島】紀淡海峡など1956/5/1
30.3瀬戸内海NP9県に及ぶ大規模追加【本文】1950/5/18
30.4NP瀬戸内海NP【備讃瀬戸】1934/3/16
31QPQP氷ノ山後山那岐山QP1969/4/1048803兵庫 岡山 鳥取
32NP山陰海岸NP←QP1963/7/158783兵庫/鳥取/京都
32.1QP山陰海岸QP→1963NP1955/6/20
33QPQP琵琶湖QP1950/7/2497601滋賀 京都
34QPQP明治の森箕面QP1967/12/11963大阪
35QPQP丹後天橋立大江山QP丹後半島は若狭湾QPから分割2007/8/319023京都
36QPQP大和青垣QP1970/12/285742奈良
37QPQP若狭湾QP1955/6/119197福井 京都
38QP金剛生駒紀泉QP【和泉山脈】拡張改称1996/10/223119大阪 奈良 和歌山
38.1QP金剛生駒QP1958/4/10
39QPQP高野竜神QP1967/3/2319198奈良 和歌山
40NP吉野熊野NP【鬼ヶ城以北】追加1975/12月61406奈良/三重/和歌山
40.1吉野熊野NP【錆浦】追加1970/7月
40.2吉野熊野NP【潮岬】追加1954/2月
40.3NP吉野熊野NP1936/2/1
41QPQP京都丹波高原QP2016/3/2568851京都
42QPQP室生赤目青山QP1970/12/2826308三重 奈良
43NPNP伊勢志摩NP1946/11/2055544三重
44QPQP鈴鹿QP1968/7/2229821三重 滋賀
[92746] 2017年 3月 19日(日)17:39:52【2】hmt さん
国立公園(3)国立公園・国定公園一覧表 1 南西諸島と九州
今朝のテレビで沖縄 慶良間の海が放送されていました。2014/3/5 国立公園指定。3月5日は 珊瑚(サンゴ)の日です。番組は 翌2015年制作で、その再放送でした。
新規の国立公園が指定されたのは 1987年の釧路湿原以来 27年ぶりのことでした。
その後、昨年の やんばる[90614]、今年の奄美群島[92739]と 立て続けに南西諸島で国立公園が誕生。

そこで[92742]で言及した一覧表を、南西諸島と九州から始めたいと思います。

どのような一覧表になるか、構想の固まらないうちに走り出したのですが、ここのサイトに出入りするうちに習性になった「変遷情報」への関心から、年代順という選択肢もありました。
しかし、メインとなる筋は やはり地域別で、拡張・改称・分立などを主とする変遷情報は、同一地域内で二次的な形で記載するのが適切でしょう。

環境省の 国立公園一覧を見ると、日本地図上の北から南へ国立公園33【奄美群島未収録】の番号が付けられています。地域別の配列は これを基礎にしたいと思いますが、琉球・奄美の話題から始まったことでもあり、南西→北東という逆順にします。

上記一覧からは地図によるリンクの他に、7地区【管轄地方環境事務所別】の国立公園にも移れます。
しかし、地図12番の上信越が地区順では中部になるなど、両者の順番は必ずしも一致していません。
実は [92742]で言及した一覧表作成の動機の一つに、この「国立公園一覧」から「一覧表」型式に行けないことがあったのですが、その後の調査で データ集の中に「国立公園の概要」という名の一覧表があることがわかりました。
pdf型式は H29/3/31現在で 34国立公園すべてが揃っていました。何故かword型式のデータは半年古く、33国立公園です。

順番という点で付言すると、12番目の上信越から分立した妙高戸隠連山は17番目に記されています。
やはり国立公園については、都道府県のような「正式の順番や番号」は存在しないようです。
南西から始めるのは 多くの日本地図帳が採用している順でもあり、必ずしも「逆順」とは言えないようです。

国立公園について、指定地域の拡張・それに伴うことが多い名称変更・分立などの変遷は、しばしば国定公園がらみの情報になります。
ということで、一覧表の対象には 国定公園も加える ことにしました。
国定公園を指定するのは環境省ですが、その管理は都道府県です。従って環境省のサイトには国定公園の情報が少ないように思われますが、先に挙げたデータ集には 国定公園の概要という一覧表もありました。
URLの中に「quasi」という単語が使われていますが、英語では「quasi national park」と言うのでした。

表の中など 文字数を節約する必要があるので、NP=国立公園 QP=国定公園という略記を多用します。
【1】[92749] みやこ♂ さん の助言に従い、略記を2文字に改めました。

上記「国定公園の概要」では、例えば蔵王QPの関係都道府県として「山形・宮城」と記されています。
都道府県を単純にコード順に並べたものでないことから、(面積順との記載はないが)重みを考慮した記載であると思われたので、今回の一覧表に採用しました。
なお、国立公園については都道府県別の面積データがあるので、三陸復興NP:宮城/岩手/青森 のように「/」で区切って最終的に宮城県が最大になっている現状[92742]を明示しました。

変遷情報の要になる国立公園の区域拡張に関しては、要領よくまとめた資料を発見することができずにいたのですが、自然公園の今後のあり方についての会議の参考資料の中から 適切な資料 を発見しました。これを利用します。

資料集めがらみで前置きが長くなりましたが、「NP・QP一覧表」の第一回として「南西諸島と九州」を示します。

表の説明
No.:南西から北東に進むための便宜的なもの。
現:NPは現存する国立公園、QPは現存する国定公園で、最新の変遷情報と日付、現在の面積、都道府県を記載
初:最初に国立公園又は国定公園として指定された情報と日付
【2】現在はNPである錦江湾(1955)、奄美群島(1974)の最初の QP指定も この欄に入力する。

変遷情報が少ない公園は、1行に「NP NP」or「QP QP」と並んで完結するが、変遷を記したNPでは、現在列のNPと初指定のNPとが別行になる。特に No.8 霧島の場合は 5行を使って編入や分立・改称を記載し、初指定もNPとQPの両方を示した。8.1行では、原生自然保全を目的とした指定地の一部削除も記載した。 
8~8.4行の日付で見るように、2012年の分立・改称から 1934年の初指定へと遡って変遷を記録する。

名称:国立公園はNP、国定公園はQPと略記。
変遷, 注釈など:【括弧内】は指定区域に入った地名など。
面積haと都道府県:現在のデータのみ。

No.名称---変遷, 注釈など日付面積ha都道府県
1NP西表石垣NP【石垣島】拡張改称2007/8/140653沖縄
1.1NP西表NP復帰時に移管1972/5/25
2NPNP慶良間諸島NP沖縄海岸QPの一部から分立2014/3/53520沖縄
3QPQP沖縄戦跡QP復帰時に移管1972/5/153127沖縄
4QP沖縄海岸QP2014慶良間NP分立2014/3/54872沖縄
4.1QP沖縄海岸QP【本島西海岸など】復帰移管1972/5/15
5NPNPやんばるNP(区域に沖縄海岸QPの一部)2016/9/1513622沖縄
6NP奄美群島NPQPから変更2017/3/742181鹿児島
6.1QP奄美群島QP→2017NP1974/2/15
7NPNP屋久島NP霧島屋久NPから分立2012/3/1624566鹿児島
8NP霧島錦江湾NP改称(屋久島N分立)2012/3/1636586鹿児島/宮崎
8.1霧島屋久NP屋久島一部削除(原生自然保全)1975/5月
8.2霧島屋久NP【屋久島と錦江湾QP】編入1964/3/16
8.3QP錦江湾QP→1964霧島NPに編入1955/9/1
8.4NP霧島NP1934/3/16
9QPQP甑島QP2015/3/165447鹿児島
10QPQP日南海岸QP1955/6/14542宮崎 鹿児島
11QPQP九州中央山地QP1982/5/1527096熊本 宮崎
12QPQP祖母傾QP(そぼかたむき)1965/3/2522000大分 宮崎
13QPQP日豊海岸QP1974/2/158518大分 宮崎
14NP阿蘇くじゅうNP改称1986/9/1072678熊本/長崎/鹿児島
14.1阿蘇NP【由布鶴見(高崎山)】拡張1953/9/1
14.2NP阿蘇NP【久住町等も最初から指定】1934/12/4
15NP雲仙天草NP天草五橋追加1967/12月28279熊本/長崎/鹿児島
15.1雲仙天草NP【天草】拡張改称1956/7/20
15.2NP雲仙NP1934/3/16
16NPNP西海NP1955/3/1624645長崎
17QPQP壱岐対馬QP1968/7/2211946長崎
18QPQP玄海QP1956/6/110152福岡 佐賀 長崎
19QPQP耶馬日田英彦山QP1950/7/2985024福岡 熊本 大分
20QPQP北九州QP【皿倉山, 平尾台】1972/10/168107福岡
[92745] 2017年 3月 14日(火)16:32:28【1】hmt さん
洛北の「大原村」 琵琶湖との分水嶺は 府県境からずれて大字境界
[92744] ペーロケさん
逆に、琵琶湖集水域が全て滋賀県とも限らないのですよね。このあたりは京都府ですが、琵琶湖集水域でもあります。

地形図 を見ると、京都府左京区の久多川は東の滋賀県に入って安曇(あど)川に合流し、比良山地の西にある朽木谷を北流し、高島市の大きな三角州から琵琶湖に注いでいます。

変遷情報 を見ると1949年(昭和24)に 愛宕郡八瀬村・大原村・鞍馬村など8村が京都市に編入されています。この内の7村は左京区であり、その末尾に久多村が見えます。

地形図をスクロールすると、約10km南に大原百井町があります。
ここも京都市ですが、百井川も久多川と同様に安曇川に合流します。
そして前記7村の内 「明治22年 大原村」の前身には 百井村の名がありました。

大原と言えば洛北の有名地ですが、その付近を流れる高野川の水系は鴨川>桂川を経て淀川に合流します。
「明治22年 大原村」の中で、分水嶺(百井峠)の北にあった一部【旧・百井村】だけの降水が 琵琶湖へと注いでいたようです。

大原地区にある分水嶺の両側の百井川と高野川。最終的には 共に淀川水系ですが、前者は安曇川>琵琶湖>宇治川経由、後者は鴨川>桂川経由であり、合流するのはずっと先です。分水嶺の地位は、京都府と滋賀県との境界と一致しないだけでなく、京都府愛宕郡大原村内の「大字境界」というレベルにまで下っていました。

裏付ける史実を調べたわけでもなく、単なる推測ですが、[92744]で示された関西の特徴
歴史が古いためか、為政者の経済力やら地位などで、「峠の向こうも領有」なんて事が多かった名残で、都道府県境が分水嶺と一致しない所が多いのかなと推察します。
これを示す実例かもしれないと思われたので、参考までにフォローしてみました。

【1】修正と共にタイトル変更
[92743] 2017年 3月 12日(日)18:10:35hmt さん
国立公園(2)国立公園の名称変更
[92742] で言及した一覧表の作成に着手しました。最初に気になったのが 国立公園名の変更 です。

国立公園の最初に改称例は 1955/3/15で、富士箱根国立公園の伊豆半島地域への拡張による「富士箱根伊豆国立公園」への変更でした。
国立公園の場合は この方式が前例として定着してしまったのですが、さすがに三連称名はいかにも長すぎ、しばらくの後続改称は二連称名でした。
1956/7/10 十和田八幡平国立公園、1956/7/20 雲仙天草国立公園、1963/4/10 大山隠岐国立公園、一つ飛んで 1986/9/10 阿蘇くじゅう国立公園、2007/8/1 西表石垣国立公園、そして 2013/5/24 三陸復興国立公園。

1964/3/16に 霧島国立公園が 屋久島地域と錦江湾国定公園とを編入しましたが、新名称は「霧島屋久国立公園」で、鹿児島県の地名三連称となる「霧島屋久錦江湾国立公園」は実現しませんでした。
錦江湾は島津家久の歌に由来する鹿児島湾の別名で、「鹿児島県民のほとんどは、錦江湾と呼んでいる。」そうです(Wikipedia)。

この愛着ある「錦江湾」が、思わぬ展開で復活したのは、48年後でした。
世界自然遺産に登録(1993)された屋久島が 独立した国立公園として分離することになり、いわば「名称の空席」ができたのです。このようにして 2012/3/16に三度目の名称である「霧島錦江湾国立公園」が実現し、同時に錦江湾北部・姶良カルデラ関係の国立公園拡張も行なわれました。

ついでに記すと、3月16日というのは 国立公園指定記念日です。遡れば 1934/3/16に瀬戸内海・雲仙・霧島の3ヶ所が最初に国立公園として指定された日だったのでした。[34551]地球人さん

ここまでは、国立公園の指定地域変更と名称とを合致させようとする動きとして理解することができます。
でも、[92742]で記したように、国立公園地域の一部が陸前に及んでも「陸中海岸」で済ませている例もありました。

名称が地域の全体をカバーしていない代表例は「秩父多摩国立公園」でした。
首都圏に近い関東山地にあるこの国立公園は、火山国の日本では珍しい 水成岩の岩塊 を主としており、埼玉県の「秩父」・東京都の「多摩」という地名により代表されていました。

国立公園面積の37%を占める山梨県(東京都28%,埼玉県27%,長野県8%)からは 1987年頃から働きかけがあったようですが、2000/8/10 三連称の「秩父多摩甲斐国立公園」への改称が実現しました。
東京湾に注ぐ秩父と多摩だけでなく、駿河湾に注ぐ川を持つ甲斐が、山地トリオの一角に加えられたのでした。
[92742] 2017年 3月 11日(土)14:57:16【1】hmt さん
国立公園(1)三陸復興国立公園
[92739] k-ace さん 奄美群島国立公園
[92740] Takashi さん
日本で5番目の 世界自然遺産登録(2018年夏) を目指す「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」の推薦書は、2017/2/1に 日本政府からユネスコに提出、受理されました。朝日デジタル
今回の「奄美群島国立公園」誕生は、「やんばる国立公園」[90614]に続いて、この世界自然遺産登録を見据えたものなのでしょう。

但し、国立公園と世界遺産とは目的が違うため、両者が相容れない事例もあります。
[79238] hmt
1972年に小笠原国立公園が指定された時には、南硫黄島も入っていましたが、1975年に国立公園区域から除外。
なぜ? それは、自然公園法に基づく国立公園が「自然環境の保護」と同時に「利用増進を図ること」を目的としているからです。南硫黄島の「手つかずの自然」を保護するには、これでは不十分。

なお やんばる国立公園 は、ピーくん さんの記事の3ヶ月後、2016/9/15に指定されました。
ヤンバルクイナやヤンバルテナガコガネで知られるヤンバルには 「山原」という字が使われており、沖縄本島北部、山が連なり森が広がる地域です。

それはさておき、今日は 大地震と津波のあった 2011/3/11 から6年を経過した記念日です。

国立公園と言えば、リアス式海岸で知られた 陸中海岸国立公園 があった…
と考えているうちに、「三陸復興国立公園」という名に変っていることに気がつきました。

落書き帳過去記事にも登場していない。これはまずい。…というわけで、少し書きます。
環境省の 国立公園一覧 の東北地区を開くと、次の記述。

戦後の1955年に指定された「陸中海岸国立公園」が、大地震津波の2年後 2013年に区域を拡張して「三陸復興国立公園」に改名。陸域面積 28537haで、青森・岩手・宮城の3県にまたがる。

なるほど、区域が拡張されて「陸中海岸」という名が不適当になったわけか。
Wikipediaにも同様の記載があるが、「面積は12,212 ha」とあり、大幅に違う。

そこで環境省のページに戻って、概要・計画書を見ると、陸域公園面積(ha)は 宮城県 14882、岩手県 11232、青森県 2423 合計 28537ha。

計画変更などの経緯という項目があり、昭和30年の公園指定から平成27年までの要点がわかりました。
昭和39年:陸中国南端の釜石市大根崎から南の宮城県気仙沼市(陸前国)まで公園区域が拡張されているが、まだ陸奥国に及んでいないので「三陸」を使わずに済ませていたようです。
平成25年:青森県蕪島など(陸奥国)の拡張あり、公園名称変更。

そして、面積への影響が大きかったのは平成27年の拡張でした。
平成27年:宮城県内牡鹿半島など区域拡張。これは南三陸金華山国定公園(139km2)を編入したもので、これにより三陸復興国立公園の面積は大きく広がり、宮城県区域が最大になりました。
Wikipediaに記されていたのは2012年(陸中海岸時代)の面積のまま未修正だったのでした。

国立公園の区域拡張による名称変更はずっと前からあります。
みやこ♂さんの記事がある 尾瀬のような国立公園分割事例 も見逃すことができません。

この記事は、とりあえず 三陸復興国立公園 についてのみ記しましたが、記事検索してみると、霧島錦江湾国立公園など近年名称変更された国立公園も登場していません。
今回の記事で概ね理解できた調査手法を用いて、全国の国立公園について、簡単な変遷履歴を含めた一覧表を作っておきたいと思っています。

ずっと昔のことになりますが、[23882] グリグリさん に記されている構想にも沿ったものであろうと思います。
こちらも構想がありまして、どちらかというと「都道府県プロフィール」のメニューにしようかと思っていました。日本三景、日本三名園、国立公園、国定公園、世界遺産、島、湖沼、など基本情報に加え、百名山、滝百選、など。えい、時間よ止まれ!

【1】シリーズ化に伴い、タイトル変更
[92736] 2017年 3月 7日(火)15:45:59hmt さん
高島市今津町天増川(あますがわ)
[92735] スナフキん さん
滋賀県全域が淀川水系とは限らない

このことは私も初めて知りました。具体的な地名を知るために平凡社の地図帳を開いて確認。
今津から小浜に通じる国道303号が県境を越える手前付近に「天増川」という集落が記されていました。

地理院地図をスクロールして 少し北(上流)に移動すると、河川名の「天増川」も確認できました。
南から合流する寒風川の谷と合わせて南北に長い谷ですが、滋賀県内で合流する3本の川【東の水坂峠からの流れもある】の何れが「北川」の本流であるかは判断できませんでした。

高島市で「北川」と言えば、琵琶湖に注ぐ安曇川(あどがわ)水系の川もあります。例えば 北川ダム
滋賀県内では、この北川の方が知られているのではないか? などと余計なことを考えてしまいました。

滋賀県の大部分は 琵琶湖→淀川水系。
しかし 北西部の北川水系だけでなく、東には木曽川水系もある とのこと[5119]
伊吹山南麓の米原市藤川付近で降った雨は、藤古川>牧田川>揖斐川を経て伊勢湾に注ぐようです。
[92734] 2017年 3月 5日(日)22:29:59hmt さん
都道府県の歌 市区町村の歌
先日、都道府県市区町村の歌に関するテレビ番組を見ました。
それによると、各地の自治体が制定している歌は 400を超えるとのことです。

話の発端は 和歌山県民歌の歌詞で、『和歌山は常春の国』『南国』『黒潮』と紀南のイメージが強い。これでは、橋本や高野山など冬が寒い紀北を連想しにくいという批判が県議会であったそうです。和歌山放送

県歌・県民歌はどの程度に存在するのか? 番組によると、47都道府県中の 42 が公式に制定しているとか。
でも、自分の居住地や出身地の県歌を知っていますか?
落書き帳メンバーの反応を見ても、あまり定着していないという印象です。[50696]の末尾[68694][68724][89539]
「なぜか千葉県民歌は知っています。」という方も。[68727]

そんな中で、学校教育などを通じて 全県民?の愛唱歌として定着しているように思われるのが、長野県歌「信濃の国」です。
この歌は もともと長野師範学校の校歌だったそうです[2751]。落書き帳にも度々登場しています。

信濃国=信州は 律令時代から存在した旧国の名称ですが、明治前期に作られた新しい地方制度では、これを一体とする行政区画になっていませんでした。1871年の3府72県時代には、信濃国北部は長野県でしたが、信濃国南部は飛騨国と共に「筑摩県」【県庁所在地:松本】を構成していました

現在では 「長野県」の ほぼ同義語のように使われている一体感のある地域「信濃の国」。この関係が生まれたのは、1876年(明治9年)8月に行なわれた 県の廃合・管轄替です。
この時に筑摩県は廃止になり、飛騨国は岐阜県へ、そして信濃国の南部は長野県と合併になりました。

松本が県庁を失った きっかけは、1876年6月の火災による筑摩県庁舎焼失と考えられています。
その結果の統合で成立した長野県ですが、70余年後の戦後間もない 1948年(昭和23年)1月、県庁別館が焼失。

これを機会に、松本側のかねての主張である 分県論が活発になり、定例県議会は大混乱になりました。
両派の攻防はあったものの、上程された分県意見書案は法定得票数に達せずということで決着。

県議会の記録の他に、当時駆け出しだったという県政記者の記録をリンクしておきます。
そのタイトルは 「分県」を救った『信濃の国』とされています。

上記採決で分県阻止派の巧妙な作戦が成功した後のこと
「信濃の国は、十州に、境連ぬる国にして・・」と『信濃の国』の歌の大合唱がまきおこった。議場の傍聴席にも伝播して「信濃の国」が議場にこだました。(中略)感激のシーンに、県議会はまた一つになった。

「県歌が長野県を分県の危機から救った」というよりも、[89539]で紹介されているように、「県歌で有耶無耶にした様な話」なのですが、互いに力を尽くした攻防の後、県歌の大合唱で仲直りできた…という感激の一幕だったようです。

所さんの番組では具体的な紹介がなかったものの、秋田県民歌も大作のようで、戦前から「三大県民歌」の1曲と称されていたようです。参考

市町村の歌も多数あるようです。

過去記事を検索して拾ったもの。
森鴎外作詞という 横浜市歌
英タイトル・英歌詞入りとはユニークな座間市[59067]
[35055]、習志野・相模原[50696][68730]、金沢[68720]、町田[68731]、茨城県13市[77019]など 。
私も今はなき「東京市歌」の冒頭を[74320]のタイトルに使ったことがあります。

所さんの番組を締めくくったのは、長~~~~い超大作。
全部演奏したら40分という 叙事詩・交響組曲「伊万里讃歌」でした。
伊万里合唱団>伊万里の歌の3番目に、縄文時代から現代まで8章からなる壮大な叙事詩の一部が紹介されていました。
[92729] 2017年 2月 28日(火)22:54:49hmt さん
勾金(まがりかね)
現在の地名で言えば葛飾区高砂・新宿・金町あたりにあった旧村名の「曲金」(まがりかね)。
落書き帳では静岡市駿河区に現存する同名の町があるなど話題になりました。
この地名が気になってフォローした[92728]の続編として、同音異字の「勾金」にも言及します。

[92726] 伊豆之国 さん
福岡県香春町には平成筑豊鉄道に同音の「勾金」という駅があります。
これらの地名と、葛飾の「曲金」との間には、何か由来に共通項でもあるのでしょうか?

葛飾の「曲金」については[92728]で道路説の資料を紹介しましたが、川の曲流説もあるようです。

静岡の「曲金」は、現存町名だけに材料が多数あると予想したのですが、思うように見つかりません。
とりあえず一つだけですが、「直角に曲がった金尺のように水田が区割りされていることから」という説を紹介したサイトを挙げておきます。

豊橋市に「曲尺手町」という町があります。呉服町の近くでもあり、矩尺を使う職人町由来でしょうか。

さて、[92726]で紹介されたように 1956年の昭和合併で消滅した旧・勾金村【福岡県田川郡】。
市区町村変遷情報には明治合併前の4村名が記されていますが、現在の大字と対比すると、「鐘山」は「鏡山」の誤記と思われます。

それはさておき、
その鏡山にあるのが 勾金陵墓参考地です。河内王墓とも呼ばれています。

地名・勾金 に関する Yahoo!知恵袋の記載。
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勾金(まがりかね)とは曲尺(矩尺)のことで、通称「指し金」と言われる大工道具のことと推測できます。古代、寺社などの木造建築は元より、町作り、都作りの基本は正しい目盛りで測量することで、曲尺は長さを計るだけでなく垂直や水平を計ることが出来る最も簡略な器具でしたので、国作りには不可欠な至宝扱いされるほど大切な物です。宇佐神宮大宮司の所領であったほど大切な土地であったという事実は、おそらく、宇佐神宮造営の際に用いた曲尺をこの地に奉祀したのではないかと思います。
荒俣宏氏の『新帝都物語維新国生み篇』を読まれると、古代から大陸や日本に於いて、測量の基本となる尺(ものさし)が国家にとって如何に重要なものであったかが理解できますよ。
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この「勾金」という地名も「L字型の金属製定規」由来とする点は共通しています。
しかし、道路・川・水田などの曲がり方を直角定規に見立てたものではなく、宝物扱いされた曲尺(さしがね)そのものに由来するようです。

「測定の基本として重んじられた物差し」と言えば、近代では「メートル原器」[45385]です。
古代でこれに相当する道具を示したものとして、大阪の四天王寺・番匠堂に祀られた「曲尺太子像」を挙げることができます。
仏教伝来と共に日本に伝えれた宮大工の技術。聖徳太子はその大切な道具である「曲尺」も発明し、大工の始祖として崇められています。

大阪仕事文化研究会
Y!知恵袋_聖徳太子信仰と曲尺
研究授業・矩
[92728] 2017年 2月 26日(日)22:32:28【2】hmt さん
曲金
[92727] ぺとぺと さん
「まがりかね」自体に何か意味があるのではないか

この言葉から真っ先に思いつく意味は、大工や建具職人が使う L字型の金属製定規 です。
呼び方は「さしがね」や「かねじゃく」が一般的でしょうが、「まがりかね」「かねざし」「まがりざし」「まがりじゃく」も使います。
漢字も「曲尺」、「指矩」、「差金」、「指金」、「矩尺」などいろいろ。

[92726] 伊豆之国 さん
「葛飾の曲金村」については、水戸街道が鉤の手状に曲げられていたことに端を発するという由来が記されていました。金町の由来

【追記】「葛飾の曲金村」の修正履歴
一度は[92726]に合わせて「下総国葛飾郡曲金村」に修正【1】。
ところが、この地が下総国だった「昔」は おそらく中世以前のことで、「直角に曲げられていた水戸街道」と時代が合わないこと気が付く。
わざわざ武蔵国に再修正することもないので、【2】で元の表記に戻す。
[92722] 2017年 2月 24日(金)13:18:27hmt さん
愛媛県以外の用例
[92720] ペーロケさん
今までの人生の中で、「媛」の字を愛媛以外の用法で見たことがありません。

落書き帳アーカイブズに 愛ヒメと書く訳 ―地名は当用漢字を超える―という記事集が作られています。

落書き帳では、その後も 地名に使われる漢字についての議論があります。
例えば [65937]宝塚市の「丶のある塚」 など。

[92721] Takashi さん
才媛という単語がこの字を用いております。

この落書き帳で、私が記憶する用例は「才媛」の他に「弟橘媛」がありました。
参考までに列挙しておきます。愛媛でない「媛」
[92702] 2017年 2月 12日(日)15:29:50【1】hmt さん
高千穂峰と高千穂町
[92700] 伊豆之国 さん
●2つの「高千穂」について
戦前、その「高千穂」はどこにあったか、と言うことを巡って「宮崎県と鹿児島県が裁判で争った」

その名が示すように 地上ではないらしい「高天原」(たかまがはら)は別として、天孫降臨神話を通じて 日本発祥の地と言われている「高千穂」。

私は、初等科国史により、宮崎県と鹿児島県との境界地帯にある霧島火山群の「高千穂峰」が、その地であると教え込まれていました。紀元二千六百年記念切手(四銭)の画像も 高千穂峰でした。

宮崎県の北端・五ケ瀬川上流の「西臼杵郡高千穂町」の存在を知ったのは ずっと後のことでした。
1889年の町村制で旧三田井村など3村の合併により成立した高千穂村の他に岩戸村も生まれており、この付近も神話に地であったことが知れます。大正9年に高千穂町になった後、昭和合併で岩戸村を含めて再発足しました。

延岡から五ケ瀬川沿いに遡る鉄道は、戦前に日ノ影線が開通。日ノ影-高千穂間は 戦後の 1972年に完成。高千穂線の深角 - 天岩戸間には水面から105mという高い鉄道橋がありました。
北にも「高千穂」が存在することを知ったのは、高千穂峡への交通が便利になったこの頃のことかもしれません。

その先、阿蘇・南郷谷の高森とを結ぶ九州横断ルートの鉄道も引き続き着工しましたが、1977年高森トンネル出水事故などもあり全線開通を断念。
1989年第三セクター・高千穂鉄道に転換後、2005年の台風で全線にわたり橋梁流失などの被害で運休となり、2008年に全線廃止。

高千穂町岩戸の奥にあった鉱山が「土呂久」です。銀山だった時代もありますが、戦前から戦後にかけて殺虫剤などに使用された亜ヒ酸の製造が行なわれ、公害病をもたらした苦い歴史があります。

天孫降臨に関連して2つの「高千穂」の間の本家争いが、大審院にまで持ち込まれていたことは初耳でした。
資料を見ると、日本書紀「襲の高千穂峯」、古事記「日向の高千穂の久士布流多氣」、日向國風土記逸文「臼杵の郡の内、知鋪の郷」など まちまち。二上の峯→「ちほの郷」。
また、北→南の移動説だけでなく、南→北の移動説もあるとか。
もともと、神話ですから現実の地名に当てはめることに無理があり、裁判で黒白を決すべき適切な対象ではないのでしょう。

高千穂大学が冠する「高千穂」は、やはり日本書紀に記された「高千穂峯」をイメージしているのだろうと思います。

自治体を異にする2つの「高千穂」ではあるが、「同一地域を表す地名が、都道府県境、市町村境、区境によって分断された地名」ではない。従って 『自治体越えの地名』コレクションの対象外。そのように理解します。

●紀元節の歌
「高千穂」という地名を聞いて、私が反射的に思い出すのは ♪雲に聳(そび)ゆる高千穂の… という句で始まる唱歌です。毎年2月11日に学校の紀元節式典で歌いました。
明治21年に発表された山田流箏曲の作品に基づく曲で、その後間もなく学校教育の唱歌に採用。解説

私が入学した 1940年(昭和15年)は 皇紀【神武天皇紀元】二千六百年にあたり、日本中に「神がかり」の宣伝が流れた 異常な時代を象徴する 国を挙げての記念行事が行なわれた年でした。
秋の記念式典で演奏されたと思われる儀式用の「紀元二千六百年頌歌」は記憶にありませんが、一般向けにラジオで流されていたのは、行進曲風の奉祝國民歌でした。

もっとも、人々は政府の宣伝に踊らされていただけでなく、タバコ値上げを皮肉った替え歌も作り、流行らせていました。

●当時の市町村の動き
市区町村変遷情報を見ても、昭和15年の2月11日には 洲本市[74036]、飾磨市、川内市と24町【新設合併2町を含む】が誕生するなど、お祝い気分を感じることができます。

合併期日は少し遅れていますが、戦時合併の一種としての「紀元二千六百年記念事業」と銘打った合併もありました[37842]

●4自治体の微妙な境界
[92700] 
微妙な4自治体接点の近く

大縮尺(#16)の地理院地図により、東の高千穂峰と西の御鉢の間にある1408m鞍部の西側境界線【グレーとジャンクションもどき】を示しておきます。境界線の北:宮崎県小林市、東:宮崎県高原町、南:宮崎県都城市、西:鹿児島県霧島市で、南北の自治体は隣接せず。

この高千穂峰から少し北西に位置する霧島山の最高峰・韓国岳1700.1mの地理院地図も示しておきます。
ここは現在では 北:宮崎県えびの市、東:宮崎県小林市、南:鹿児島県霧島市の3自治体接点です。
しかし、2005/1/7の霧島市新設合併前までは 西:鹿児島県牧園町、南:鹿児島県霧島町の境界でもあり、真のグレーとジャンクション【4自治体境界】であった可能性があります。[24021]ペーロケさん参照。

【重要でない追記】
●高千穂大学のある東京都杉並区和田堀
現在地に大学の前身である高等商業学校が開校したのは1914年です。日向の高千穂とは無関係と思いますが、11世紀創建の大宮八幡宮と隣接しています。祭神は当然のことながら応神天皇。
付近の善福寺川沿いは和田堀公園になっている東京近郊の景勝地で、子供の頃にも訪れたことがあります[35838]
東京府東多摩郡和田堀内(わだほりのうち)村は連称自治体名。

「土呂久」で話題にした亜ヒ酸
●1998年の和歌山カレー事件で使われた毒物です。
[92698] 2017年 2月 10日(金)19:10:02hmt さん
Re:岐阜市は三重県?
[92695] Takashiさん
岐阜市について紹介する歴史の本に、岐阜市が三重県内にあるなどの誤った記述や誤字が、少なくとも30か所見つかったとのこと。

引用された報道にも、『岐阜信長 歴史読本』の誤記について
岐阜市が三重県内にあるなどの誤った記述
と記されていました。

そのような「常識では考えられない」誤った記述が本当にあったのか? 

疑問に思って調べてみたら、岐阜新聞Webに 誤表記を指摘した「西部・南部エリア」という地図の画像がありました。
画像の説明
地図では岐阜市に「三重」、岐南町、笠松町に「愛知」と表記されている

画像の指の先に見える「三重」の文字が記されているのは、岐阜県庁【表示なし】の北東(岐阜駅方面)だから、県名「岐阜」の誤記であることは明らかと思われます。
この地図での「岐阜市」の表記は、更に北東に進んだ岐阜市役所【表示なし】の東方に見えます。

県名誤記は明らかですが、この地図から「岐阜市が三重県内にある」という「自治体の相互関係」を示しているとは思われません。

もちろん、地図に表示した「県名の誤記」を見逃した校正・出版のプロセスは許されるべきものではありません。
誤記を指摘したニュース報道自体は価値あるものと評価します。

しかし、誤記の対象を「県名」から「岐阜市の所属」にすり替えて報道したことに問題はないでしょうか?

「岐阜市は三重県?」に限れば、常識的には誰にも明らかな間違いです。
腹の立つ方もあるでしょうが、あまり実害はない「から騒ぎ」として受け止めてください。
プロの出版社としては、痛い教訓を今後に生かしてください。
でも、「都道府県市区町村」落書き帳の話題にするには格好のネタでしたね。
[92668] 2017年 1月 31日(火)18:22:26【1】hmt さん
名所地名を利用した自治体名 (2)十和田
十番勝負で賑わっていた正月の落書き帳。すっかり御無沙汰していた hmt です。

私は豊洲のニュースを聞きながら、東京臨海部の陸地化の近代・現代編を書かねばならないと思っていました。
その他にも、書きたいテーマをいろいろと抱えているのですが、気力が衰えて 筆を進めることができず、低迷状態でした。

ところが、月末になったら 別の事情に気がついて、少し慌てました。
それは、2017年1月の書き込み数がゼロということになると、2003年8月から 161ヶ月継続していた月間連続記録が中断するからです。

記録を意識して無理やり投稿する。それは褒められた行為ではありませんが、追い詰められたらやむを得ません。
最近のネタ帳を眺めたら、[91957] 名所地名を利用した自治体名(1)妙高 が目につきました。
とりあえず、青森県と秋田県とに跨る「十和田湖」に因む「十和田」のつく自治体を その続編として選ぶことに決め、これを 162ヶ月目の投稿に仕立てておきます。
本来の大仕事は先送り。このような姿勢では、何時になったら書けることやら
…と反省しながら、今日は「十和田」の記事を書きます。

最初に、変遷情報検索結果をご覧ください。

「十和田」を名乗る自治体が誕生したのは戦前の青森県上北郡で、1931/9/7のことでした【#1】。
そこは十和田湖から奥入瀬川が流れ出る子ノ口から始まる奥入瀬(おいらせ)渓流沿いの村です。明治22年町村制の時に 上流から奥瀬村【現在の地名:十和田市奥瀬】, 法量村, 沢田村の3村が合併した際には合成地名の「法奥沢村」を名乗っていたのですが、昭和戦前期になるとようやく「十和田村」に改称したのでした。この青森県十和田村が十和田町になったのは戦後の1955/4/1でした【#3】。

ところがこの昭和合併時代になると、静かに眠っていた十和田湖もようやく観光に目覚め始め、秋田県側を含めて動きが活発になります。

秋田県では青森県十和田町誕生の前日1955/3/31に花輪線の通る交通拠点(毛馬内町・錦木村)が合併して鹿角郡十和田町を名乗ります【#2】。
こちらは十和田湖に面していませんが、青森・秋田両県に、ほぼ同時に十和田町誕生というわけです。
秋田県十和田町は翌1956年大湯町との合併後も同じ名称を維持【#4】。

一方、1956年には青森県十和田町に隣接する三本木市が十和田市と改称し【#5】、「十和田」を名乗る自治体名は三つ巴になりました。
三つ巴状態が解消されたのは、1972年まで鹿角市になるまで 通算17年間存続した 秋田県十和田町の消滅です【#6】。

これで2つになった「十和田」自治体は、本家筋の青森県上北郡十和田町と、湖岸もない新参者の十和田市。
1975年には湖水に面した本家?が「十和田湖町」に改称し【#7】、2005年には平成合併【#8】で 「十和田」の名を共有することになり、ようやく一つになりました。

「十和田」自治体については、既に[11649]seahawk さん の記事がありました。
湖畔に存在し、戦前からの使用実績を持つ青森県上北郡の十和田町。
下記再録からも、この自治体が「十和田」の名に値する本家筋であると考えられるようです。
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青森県に十和田市と十和田湖町があるんですが、これも仲間だと思います。
十和田市は昭和30年2月に三本木町、大深内村、藤坂村が合併して三本木市として市制を施行しました。そして、十和田湖への入り口の町ということから昭和31年10月に十和田市に市名を変更します。
十和田湖町は明治16年に法量村、奥瀬村、沢田村が合併。頭文字をとって法奥沢村を名乗りました。昭和6年に十和田村に村名を改称して、昭和30年に町制を施行しました。そして、町制施行20周年の昭和50年に十和田湖町となったのです。
ですから、昭和31年から昭和50年まで「十和田」という名称の自治体が隣り合っていたということになるのです。今の北海道釧路市と釧路町みたいですね。十和田湖の湖畔にある十和田湖町は「十和田町」を名乗るのは当然のように思いますが、十和田市が「十和田」を名乗ってしまったことで、十和田湖町にとってはかなり迷惑だったかもしれません。
そして、秋田県にも十和田町(現・鹿角市)があったので、「十和田」の名称争いは激しかったのかもしれませんね。
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[92107] 2016年 12月 17日(土)17:35:10hmt さん
町村の所属郡表記は 原則として必要
[92105]白桃さん
正直申しまして私は、郡は「無用の長物」なので省略しても良いと考えており、

現在では出番が少なくなったからと言って、郡が「無用の長物」になったわけではありません。
21世紀になってからでも全国で5つもの郡が設置されています。

岡山県加賀郡 石川県鳳珠郡 福井県三方上中郡 北海道二海郡 北海道日高郡

ましてや、このサイト「都道府県市区町村」の取り扱う対象は 現在だけに限定されるものでありません。
群馬県勢多郡・吾妻郡・佐波郡などの「東村」を郡によって区別していた時代があったのは、記憶に新しいことです。

町村の所属郡表記は 「原則として必要なもの」であると考えます。

しかし、町村制施行以降だけを考えても、時代により「郡」の担う役割・意味も変りました。
「郡制」を含む制度の変遷については [83665]にも要点を記し、Issieさんが要領よく説明してくれた [9296]を含む アーカイブズも紹介してあります。
そのタイトルにも、「郡はなくしてもいいのではないか? -「郡」とは何なのだろうか-」とあります。

今更、郡記載の原則無用論に対する反論を書く気にもなりませんが、
特に消滅した町村が所属していた郡名は記載しない
を実行し「旧茨城県七会村は七つの村が合併したから七会となった。」と記した記事について、
(いずれも7村の合併ですが) 茨城県西茨城郡七会村(現・城里町)と 茨城県新治郡七会村(千代田村を経て、現・かすみがうら市)とがあり、「茨城県七会村」では特定不十分です。
と指摘したことがあります[65257]。ご参考まで。

なお、私が反対するのは 一律的な「郡記載の原則無用論」です。
私自身にしても、時に応じて所属郡の記載を省略することは、しばしばあります。

特に明治30年から郡役所に代る「支庁」が設置された北海道庁管内では、これが道内の広域行政区分として定着し、現在の総合振興局・振興局に引き継がれており、「郡の存在感」は希薄なように思われます。
「自治体としての郡」が存在した歴史がなく、「行政区画としての郡」も古くから機能していない北海道。しかし、そこに新しい郡が2つも生まれているのは皮肉な結果です。住所表示専用の郡?

都道府県市区町村サイトで提供される情報が、その目的に応じて、適宜省略記載が行なわれていることは、当然の前提として受け止めております。

長い読みという企画の内【8文字】No.48 の事例で説明すると、伝えるべき情報のうち、1890年の「香川県寒川郡鴨部下庄村」という「長い読みの市町村登場」が最も重要であり、それに次いで 1916年改称による「長い読み失格」が位置することは明らかです。
「鴨部下庄村」という市町村名は維持されているので、所属郡変更の情報【1899年大川郡】は省略されています。
失格時の名称【鴨庄村】は記されていますが、その所属郡名は省略されています。

白桃さんの個人的な感想としては、慣れ親しんだ「大川郡」の方を優先させたいという思いがあったのだと思います。
大川郡は、郡名としては平成まで残っていましたが、長い読みの鴨部下庄村が存在したのは、明治から大正にかけてのことでした。

この企画のポイントに立ち返ると、それは「長い読みの市町村名」、特にその誕生です。
明治~大正の17年間存在した「香川県大川郡鴨部下庄村」は、少しピント外れのように思われます。残念でした。
[92092] 2016年 12月 12日(月)17:45:57hmt さん
ローカルな地名漢字
[92077]グリグリさん
それにしてもこの稀少地名漢字リストというページは稀少漢字地名が網羅されていて素晴らしい情報サイトになっています。

過去記事を拾ってみると、pyriteさんご本人の投稿がありました。

だからどうした? という訳でもないのですが、僅か1件でも投稿記事があるのを発見し、なんとなく嬉しくなりました。

実は hmtが落書き帳に出会った2003年夏、武蔵野台地の「ハケ」という地名が話題になっていました。
スナフキんさんが、「土へんに赤」というタイトルで書いているように、関東ローム層の赤土が露出した「崖」で、珍しい「局所地域的作字」による漢字と記載されています。
一連の記事は、2012年に「垳(がけ)という地名」[80937]を話題にした際に まとめたものです。

こちら【ハケ】も地域限定ですが、「垳」よりも 広い範囲で使われています。
しかし、「土偏に赤」 という字については、前記の辞典にも、JIS第2水準にも収録されず、冷遇されています。
「大字」レベルの地名に使われていなかったことが、その原因でしょうか?
これに続いて、狭山市内のバス停写真が紹介されていますが、左側は違う漢字になっています。

稀少地名漢字リストを見直すと、ふじみ野市「はけ」の現地レポ(2013年)も掲載されていました。

稀少地名漢字リストJIS第4水準Unicode212FDに収載。

稀少地名漢字リストの埼玉県で「はけ」「ばけ」を検索すると、JIS第2水準の【岾】が所沢市南永井字大岾(おおはけ)など5+1地点、JIS第4水準の【𡋽】が川越市大字寺尾字𡋽(はけ)など4+1地点、JIS第4水準の【屼】が所沢市大字上安松字向屼(むこうはけ)など2+0地点、JIS外【坫】が川越市砂久保字小坫(こばけ)0+1地点。【はけ11+ばけ2 = 合計13地点】

せっかくの機会なので、地元の「はけ」地名につき、稀少地名漢字リストへの収録状況を確認しました。
[92091] 2016年 12月 12日(月)17:34:42hmt さん
同じ内容の記事
[92073] k-aceさん
おそらく記事検索されていないのでしょうが2010年3月に[74336]で全く同じ内容を書いております。

2010年1月から白石町役場新庁舎供用と2支所廃止のこと。おっしゃる通り、同じソースによる同じ内容の記事でした。

今回の[92071]は、平成合併終結6年後の現在の話題「支所の形でも残されていない旧自治体」がきっかけでした。
従って、平成合併末期の記事[74336]と「同じ内容だから書いてはいけないということではありません。念のため。」と言われる通りで、再度話題にすること自体は問題ないと思います。

しかし、私が記事検索をしなかった手抜のために、先行記事を無視した形になってしまいました。
これは、k-aceさんに対して失礼な結果でした。お詫びします。

お詫びだけでも…というわけで、過去記事に関連する別件「ローカルな地名漢字」は別記事で書きます。
[92090] 2016年 12月 12日(月)17:28:59hmt さん
香川県寒川郡鴨部下庄村
[92081] mizutohさん
香川県大川郡鴨部下庄(かべしものしょう)村…1890(M23)2.15村制

重箱隅ですが、長い読みの市区町村に追加された村。その所属は 寒川郡 でした。香川県町村制施行時
[92071] 2016年 12月 9日(金)12:40:31hmt さん
佐賀県白石町
平成合併で消滅した旧自治体で、支所的な組織 or 施設が残されていないものに関するもの。
白桃さんの質問[92049]に対し、既に[92066]菊人形さんから多数の事例を報告していただきました。

その一つですが、佐賀県白石町に関して 新庁舎が完成した頃の 佐賀新聞ニュースに、支所廃止が記されていました。変遷情報と共に その要点を補足します。

2005/1/1 佐賀県杵島郡 白石町, 福富町, 有明町の新設合併→白石町
合併時に旧白石町への新庁舎建設を決め、それまでの間は旧有明町役場を使用した。

新聞によると新庁舎の業務開始は2010年1月4日。これに伴い、福富と白石の2支所を廃止。その他組織変更。

佐賀県の地図 白石町役場の位置修正をお願いします。>グリグリさん
[92055] 2016年 12月 6日(火)21:39:11【1】hmt さん
北海道日本海側の漁港・雄冬
[92048]菊人形さん
そんな雄冬が増毛町と浜益村(当時)に跨っていたことを初めて知りました。
[92050]グリグリさん
これはかなり大物でしたね。

「大物」が何を指しているのか よく理解できなかったのですが、私が最も感動したこと。
それは30年前の「陸の孤島」時代に 酷い船酔いに苦しめられながらも訪れた高校生が 落書き帳メンバーとして活躍しており、しかも3年前にも国道231号で 再訪を果していることでした。

そこで、全く知らない土地なのですが、少し調べた結果を綴り、北の町への想いを寄せることにします。

手元にある昭和47年のJTB時刻表には載っていませんが、昭和58年頃の時刻表では航路で繋がった雄冬が載っていたように記憶もあるのですが…。

【以下追記修正あり】
[92043]k-aceさん引用の「こちら」【見落し、便宜的に 呉服屋 と呼ぶ】掲載の1978年時刻表地図にも雄冬はありませんでした。
ところが手元の『時刻表』1982年9月号には、増毛-雄冬間の 雄冬海運の定期船が掲載されていました。増毛発9:00, 雄冬発13:30の一往復。1時間15分、1000円の航路です。
呉服屋掲載の雄冬航路は、臨時便も掲載された北海道時刻表でした。

WEBを探してみたら、乗船体験の回想録がいくつかありました。
呉服屋の乗船時期は不明ですが 1980年代初頭と推測されます。菊人形さんの[91960]「30年以上前」と比較的近く、当時の雄冬の状況をよく伝えているものと考え、下記のように紹介しました。
 「石炭ストーブ」と「金たらい」が備えられた「黒光り四畳半」の船室。
 外海に出るとひどい揺れ方。これはすべての乗船記に共通。
 それでも当時の雄冬には 80戸、200人ほどが居て「雄冬小・中学校」も健在であった。
 「増毛町立雄冬へき地出張診療所」の写真。公共機関は概ね増毛町が設置したもののようです。

道路の整備により陸の孤島状態から抜け出したが雄冬の住民は激減。2013年時点で37戸、70人。小学校も2002年で閉校。増毛中心部から20分になった現在雄冬地区に小学生はいない。呉服屋はこのように伝えています。

その他の乗船記録で比較的詳しいのが 雑貨屋
これは札幌からのバスで訪れているので、1984/5/15の雄冬岬トンネル再開通の後、雄冬定期航路最終運行(1992/4/30)より前という条件から、1984-1991年の間の初秋と推定できます。
この期間の雄冬-増毛間は、定期船と増毛山道【冬季閉鎖があったが1992/10/22通年開通】の両方で通行可能でした。

1979年の雄冬
S55/3/21の乗船券 
更に前の時代 寄港地の多かった頃の雄冬航路
廃止前に毎年のように乗船

国道231号雄冬区間の概略史
浜益-増毛間は、難工事による莫大な工事費ゆえに「ダイヤモンド道路」といわれるそうです。参考までに「黄金道路」と呼ばれるのは、国道336号のえりも町~広尾町間。出典
【追記終】

地理院地図を見ると、神社・仏閣・郵便局なども増毛町。主要な産業施設である雄冬漁港も増毛町。
ところが、#15スケールで見ると、北端のオフユ川は増毛町、南端の雄冬岬は石狩市浜益区と分かれています。東方の雄冬山は境界線上。

増毛町の所属する留萌振興局と石狩市の所属する石狩振興局との境界線。
地理院地図で これを辿ると、雄冬の市街地を南端近くで分断し、「とど島」に及んでいます。
人口では圧倒的に増毛町雄冬が多数でしょうが、面積では 山地を考慮すると 石狩市浜益区雄冬の方が優位か。

[92048]菊人形さん
境界線は人間が決めたもので、何らか理由があって一部が浜益村になったのでしょうが、

とど島を通る境界線。この地の主要産業に関係する「漁業権」こそが、その理由を説明していたと思います。
雄冬漁港で水揚げされる魚は 新しい国道を通って札幌都市圏に供給されていると思います。
しかし、水揚げされた魚には「住所札」が付けられてはいないでしょう。

一方、住民の生活面は全面的に増毛町に依存していました。新聞・郵便物・米・野菜・雑貨などあらゆる物資が定期船で持ち込まれ、帰り船では魚を入れた木箱が増毛の市場に運ばれていました。
国道の開通により交通と物流の事情は大きく変りました。しかし、「遠い石狩よりも 近い増毛」への親近感は、そう簡単には変わらないでしょう。

ゴミ収集など、石狩市の行うべき住民サービスが気になりますが、増毛町に委託しているのではないかと推察。
名目上は市町村境どころか振興局境界を越える地名なのですが、行政実務上はもっと融通を利かせた扱いが行なわれ、効率化が図られているものと期待します。

道路がなかった「陸の孤島」時代の雄冬を物語る挿話。
電話回線は 雄冬を最後に北海道の自動化が完了していましたが(1878年)、敷設には海底ケーブルを使ったとか。
[92026] 2016年 12月 3日(土)22:14:21【2】hmt さん
今夜は秩父夜祭
12月3日。今夜は秩父夜祭です。祇園祭・高山祭と共に日本三大祭に数えられることもしばしば。
最近はローカルな お祭り切手 も多数発行されていますが、1964年に出たシリーズ切手の「10円」という額面が、この3つが山車屋台祭の中で占めるステータスを物語っているようです。

約1ヶ月前にユネスコの評価機関による無形文化遺産登録勧告のニュースが伝えられ、秩父鉄道の記念乗車券などの準備も進められていました。

今年話題になった「ユネスコの無形文化遺産」との関係に触れると、京都祇園祭は 2009年に既に登録済みでした。【日立風流物と共にそれぞれ単独で登録】
ところが、高山祭と秩父祭とは2011年の審査でこの既登録祭との類似性を指摘され、登録が見送られました。
そこで日本政府は方針転換し、上記4件の祭りと共通の特徴を持つ他の祭り29件を包括し「1件として提案」。

2016年に「山・鉾・屋台行事」というタイトルで登録されることになった日本の祭は、このような経過を経てユネスコ評価機関に認められた「無形文化遺産」だったのでした。

既登録案件を国レベルに拡張し再提出。これは 評価機関による勧告内容で称賛されており、「個別登録でなく一纏めにする」方針が ユネスコの意向に沿った方針転換であることが窺えます。

文化庁サイトユネスコ無形文化遺産について(2016年11月現在)には
現在22件(世界全体では336件)
と記されています。

近日中に2016年12月現在に改訂されるでしょうが、上記のような事情により、22件プラス2016年登録1件を加えた結果は「現在 21件」になると思います。

「山・鉾・屋台行事」の一覧表
その数は全国で33もありますが、せっかくの機会なので開催地と行事名の一覧表を記録しておきます。
いずれも国の重要無形民俗文化財に指定されており、文化庁サイト国指定文化財等データベースで>重要無形民俗文化財>風俗慣習>祭礼(信仰)という分類に進むと情報を得ることができます。但し「知立の…」だけは>民俗芸能>渡来芸・舞台芸に分類されていました。

*印の2件は 2009年に単独登録されていた案件でしたが、これに替えて 2016年登録「山・鉾・屋台行事」の一覧表33件の一部になりました。

青森県八戸市八戸三社大祭の山車行事---岐阜県大垣市大垣祭のヤマ(車へんに山)行事
秋田県仙北市角館祭りのやま行事---愛知県津島市と愛西市尾張津島天王祭の車楽舟行事
秋田県秋田市土崎神明社祭の曳山行事---愛知県知立市知立の山車文楽とからくり
秋田県鹿角市花輪祭の屋台行事---愛知県犬山市犬山祭の車山行事
山形県新庄市新庄まつりの山車行事---愛知県半田市亀崎潮干祭の山車行事
茨城県日立市*日立風流物---愛知県蟹江町須成祭の車楽船行事と神葭流し
栃木県那須烏山市烏山の山あげ行事---三重県四日市市鳥出神社の鯨船行事
栃木県鹿沼市鹿沼今宮神社祭の屋台行事---三重県伊賀市上野天神祭のダンジリ行事
埼玉県秩父市秩父祭の屋台行事と神楽---三重県桑名市桑名石取祭の祭車行事
埼玉県川越市川越氷川祭の山車行事---滋賀県長浜市長浜曳山祭の曳山行事
千葉県香取市佐原の山車行事---京都府京都市*京都祇園祭の山鉾行事
富山県高岡市高岡御車山祭の御車山行事---福岡県福岡市博多祇園山笠行事
富山県魚津市魚津のタテモン行事---福岡県北九州市戸畑祇園大山笠行事
富山県南砺市城端神明宮祭の曳山行事---佐賀県唐津市唐津くんちの曳山行事
石川県七尾市青柏祭の曳山行事---熊本県八代市八代妙見祭の神幸行事
岐阜県高山市高山祭の屋台行事---大分県日田市日田祇園の曳山行事
岐阜県飛騨市古川祭の起し太鼓・屋台行事---
[92002] 2016年 11月 29日(火)16:57:50hmt さん
長~い新田地名:上土新田下足洗新田川合新田請新田
[91965] グリグリさん
短い読み・長い読みの市区町村の一番最後に「新田」と称する長い読みを参考データとして掲載しています。

引用部分冒頭の記載
以下のリストの「新田」は「村」と同じ意味でもあるので、参考データとして提示します。

「新田(しんでん)」という言葉は、昔からの耕地「本田(ほんでん)」に対して「新たに開発された耕地」を意味するのが第一義でしょう。しかし、それは「地名」や「集落名」にも転用されています。

古代から営々と行なわれた新田開発は、時代により 事業主体・規模なども様々に変化してきました。
しかし、記録で目にする「新田」地名・「新田」村名の多くは、近世由来のものが多いと思います。
なお、明治以降の開発事業には「新開」という言葉が多用されました。[48709]

「新田」は「村」と同じ意味に使われると共に、「新田村」単独 又は「○○新田村」という複合形で「村」と併用されることもありました。
変遷情報検索で「新田村」を検索すると 253件が抽出され、その大部分は背景赤色の旧村です。

町村制の「○○新田村」は10件【1889年と廃止年と2回抽出されるので、実質5件】で 1889年から昭和合併までの約66年間を存続したのは、長野県の「五郎兵衛新田村」[16828]と静岡県の池新田村【→池新田町】だけでした。

これに対して旧村を含まない条件で「新田」を検索すると30件です。明治合併のなかった岐阜県の事例が示すように新田数は抽出件数より多く、「○○新田村」という表現は例外的であり、村と同じ意味で使われるのが普通であったと思われます。

それはさておき、「長~い読みの新田地名」で、ぜひ紹介しておきたい事例があります。
それは 町村制施行前の 旧村名 なのですが、今尾恵介さんの著書『地名の社会学』(角川選書, 2008)p.58に掲載されていた「上土新田 下足洗新田 川合新田 請新田」という長い連称名です。
現在は静岡市葵区流通センター付近、巴川の左岸・諏訪神社方面からの支流が合流するあたりです。
昔は沼地だったが、これを 周辺にあった村人たちの力で 耕地に変えたものと推察します。Mapion

「あげつちしんでん しもあしあらいしんでん かわいしんでん うけしんでん」「読み」が 32かな文字、漢字で 16文字という大記録の旧村名は、明治合併後も千代田村の大字名として残り、静岡市編入後も 1977年の町名変更まで存続しました。

同類で現存する大字、静岡県藤枝市にある 久兵衛市右衛門請新田 は 16かな文字、10漢字です。

今尾さんは、この「上土新田 下足洗新田 川合新田 請新田」という地名を 次のように説明しています。
上土【あげつち】村が開発した上土新田、下足洗村が開発した下足洗新田、川合村が開発した川合新田の3つの新田村があり、これらが更に 新しい村請新田 を開発したところ、こんな寿限無ばりの長名となったのだろうが、さすがに日常的に呼ぶのに不便なので「三請新田」という通称があったという。(中略)これが昭和52年(1977)まで存続していたというのは なかなか驚異的だ。

変遷情報で確認すると、町村制施行の前月に行なわれた明治合併前の旧村です。
読みは32音で変わらないが、「上土…」が「上ヶ土…」となっていました。

市区町村の変遷 静岡県より抜粋
M22/3/1【明治合併】 静岡県安倍郡上ヶ土新田下足洗新田川合新田請新田が安倍郡上ヶ土新田, 川合新田, 川合村など7村、有渡郡下足洗村, 下足洗新田など5町村他と合併→安倍郡千代田村【旧村】
M22/4/1【町村制】 安倍郡千代田村【旧村】→安倍郡千代田村【明治合併前の12町村は大字となる】
S9/10/1【編入】 安倍郡千代田村など5村→静岡市に編入
【Wikipedia:静岡市の町名の変遷より抜粋】
S49/10/1 【分割・新設・住居表示】上土新田下足洗新田川合新田請新田の一部【支流東岸】→流通センター
S52/3/9 【分割・新設】上土新田下足洗新田川合新田請新田の各一部【支流西岸】→牛田、野丈

いろいろな「○請新田」
先に「事業主体も様々」と書きました。新田開発は 幕藩体制側 自らの開発計画に基づく「代官見立新田」や「藩営新田」もありました。落書き帳記事番号4桁の時代からお馴染みの 三富新田はその一例です。

民間で資金を出し合い事業を進める「百姓寄合新田」の代表的なものが「村請(むらうけ)新田」でしょう。
複数の村の共同事業となると連称になり、その一員が新田村の場合、孫会社のような地位になる新田は「○○新田 ☓☓新田 請【=請負】新田」という長い名前になります。

地元資本がその土地の有力者の場合は「土豪開発新田」。信州の「五郎兵衛新田村」は一人でしたが、駿河国の「久兵衛市右衛門請新田」は二人の連名。
都市で蓄財した投資家による「町人請負新田」、「寺社請新田」など外部資本による新田もあります。
[91969] 2016年 11月 20日(日)17:47:27【2】hmt さん
Re:市区町村名とは?
[91965]グリグリさん
椿郷東分村(「つばきごうひがしぶん」ではなく「つばきごうひがし」がより妥当なのでは?)

私はこの村名を「椿郷/東/分村」と解しました。形式的には「椿郷/東分/村」と解釈する余地もあったのかもしれませんが、分村の「分と村の間を分ける」のは不自然であると考えました。

そして、「分村」という部分も「町村名」を構成する必須要素ですから、これを省くわけにはゆきません。
残された道は、町村名が「椿郷東分村」であると考えるしかありません。

「まち」と「ちょう」で「かな表記」の字数が変ってしまいますが、「市町村名」は あくまでも「漢字かな混じりを基本とする日本語の正書法」によるべきであると思います。

「かな表記」はあくまでも便宜上のものであり、「かな表記の字数」に囚われるのは本末転倒です。
「短い読み・長い読みの市区町村」を考える場合、長短を決める基準を「かな」字数でなく、「日本語の音数」【促音・拗音は1、長音は2と数える】に改めてもよいわけです。

長野県北安曇郡にあった自治体「大町」について説明すると、「おおまち」と発音する自治体名の中に、既に町であることを示す部分が含まれているので、屋上屋を架す「大町町」とする必要がなかっただけです。

1954年の「新設合併」に際しては、当然のことながら「新しい自治体名」を定めることになりました。
この場合、慣れ親しんだ「大町」という「地名」を語幹に残し、しかも市になったことを示す語尾を加えた「大町市」を「自治体名」を選んだのは、ごく自然なことと思われます。

山梨県南都留郡谷村の場合。明治22年山梨県令第40号には 「本年7月1日より県下甲府に市制を其他の町村に町村制を施行す」と記されています。西山梨郡の甲府には郡区町村編制法時代からの「町」が多数存在したのですが、甲府以外の地域には町が存在せず、町村制施行地域は245村になりました。南都留郡谷村も当然のように 町村制の「谷村」になりました。その際の分合・改称はなく、従って 明治22年山梨県令第41号の記載事項もありません。

その後、北巨摩郡河原部村→韮崎町(M25)、東山梨郡勝沼村→勝沼町(M29)に続いて谷村も3番目の町になることになりました。
この場合、慣れ親しんだ「地名」の「谷村」を残し、更に町になったことを示す語尾を付した「谷村町」が「自治体名」として選ばれました。

参考までに、大町・谷村と同様に 語幹部が漢字1字である自治体名 に関して、「もとの地名」を論じた過去記事を示しておきます。

[34770] hmt
【神奈川県中井町は】中村と井ノ口村の合併により成立ですから、「井ノ口」に対応する「もとの地名」は「中村」でなく、「中」になるのでしょうか。
[34776] Issieさん
どのような基準にのっとって解釈するかはそれぞれ,だと思うのですが,私は「中村」で1つの地名とみなとしてよいと考えています。「六日町」を「六日」と「町」に,「荒川」を「荒」と「川」に分解できないことはないけれど,それでは地名としては意味がないのと同じように。(中略)
地名としては,「中+村」と分解することはできず,「中村」という一塊の名前なのだと考えます。
[91959] 2016年 11月 18日(金)19:18:20【2】hmt さん
市制町村制施行当時の自治体名称
[91958] 白桃さん
それはさておき、とりあえず基本的な質問をさせていただきたいのですが、

最初は 真面目に答えず、「2件のご質問にお答えすべき当事者の立場にない。」…と交わそうかと考えました。
Q1は 「わかりきったこと」であり、Q2は 私にとっては関心外で、基本的とは考えていない質問だからでした。
でも心を改め、私の知る限りを 真面目にお答えすることにしました(笑)。

Q1 明治の市制町村制度においては、ドコが当該地を市あるいは町村と決定したのか

白桃さんはご存知の上で質問されているのだと思いますが、[34434] Issieさんの記事にあるように「内務省」です。
1889年2月2日付の 明治22年内務省告示第1号で,最初に「市制」が施行される 36市が指定されました。
これに遅れて 佐賀・岐阜・甲府・鳥取の4市が指定されているので、この制度で「最初の市制施行地」と決められた地は 合計40 になります。
その結果、市制施行地を除く3府42県【北海道・沖縄県・島嶼など法律・市制町村制の対象外とされた地域を除外】は、自動的に「町村制施行地」になりました。

内務省の中で「どのように」決めたのか? 
ずっと後ですが、[86139]むっくんさん の記事に、S18.4.17 内務省発地第三六號「市制施行詮議内規」という資料が登場しています。
その前身というか これに類する内規は、おそらく明治時代から 存在したものと推察しますが、情報公開が不十分な時代ですから、調査するのは困難と思います。

Q2 さらに言えば、町と村の名称上の区別を下したのかドコなのか

マガジン 町と村の違いの冒頭に記したことの繰り返しになりますが、「町と村の違い」 はずっと不明確です。

「市制町村制理由」に記録されている当時の考え方の要点は、[63912] okiさんの記事に引用されています。
この記事は、町村制第3条の規定「凡町村ハ従来ノ区域ヲ存シテ之ヲ変更セズ」の存在も指摘しています。
町と村とは、「従来の区域に応じて、その名称も継続された」と考えるのが自然なようです。

実際には「区域ヲ存」せずに合併した町村の方が多いですし、従来町であったところが町村制の適用後に村になった場合【注】もありますが、農村の数に比べて町は非常に少なかったのが実態ですから(おおむね、村が約60000に対し旧城下町内を除いた町は600くらい)、旧来の町の多くがその名称を保存したでしょう。
【注】
合併に伴う例ですが、近くの埼玉県入間郡大井町他3ヶ村→大井村[78812]を挙げておきます。

okiさんの記事に示されている 大阪府西成郡難波村 明治24年の人口 26405人。これは、姫路市の 24608人より多い。
「元来町ト村トハ人民生計ノ情態ニ於テ其趣ヲ同ジクセザルモノアリテ、細カニ之ヲ論ズレバ均一ノ準率ニ依リ難キモノナキニ非ズト雖モ」という建前論や人口の多寡には目もくれていません。

「町村制」という同一制度の中なのだから、実体は町場化していた難波村についても、旧名称の継続で良いではないか。
このような安易な区別が使われた実例のように思われます。
[91957] 2016年 11月 16日(水)18:04:08hmt さん
名所地名を利用した自治体名 (1)妙高
[91948]に続き、過去に存在した長い読みの市町村から題材を得た記事です。
異彩を放っているのが、リストの中で3行を占めている「みょうこうこうげん」の「妙高」です。
1955/4/10 新潟県中頸城郡妙高々原村→1956/9/30 妙高々原町→1969/10/1 妙高高原町→2005/4/1 妙高市

言うまでもなく、長野から直江津に向かう車窓の左側に特異な山容を示す成層火山・妙高山に由来する自治体名です。
妙高山は 北信五岳の筆頭に挙げられていますが、信濃ではなく越後の山ですね。
赤倉・池の平などの温泉やスキーで知られた名所・行楽地です。

この「妙高」という名を利用した自治体名称が 町村制施行の1889年に 南の長野県境近くで誕生し、100年以上かけ、その範囲を北へと拡大してきた歴史をまとめてみます。

最初は、変遷情報検索により「妙高」を調べた結果です。

異なる漢字を使った「名香山(なかやま)村」を含めて7件の自治体名が抽出されました。
何れも新潟県・越後国中頸城郡の領域にありますが、2つの妙高村は時代も場所も異なるので、以下の文では便宜上 妙高村1と妙高村2に書き分けます。

年代を追ってみると、3期に分けると理解しやすいようです。

第1期は、町村制施行の1889年から 昭和合併の1955年までの 66年間です。
妙高を使った自治体は、妙高山のお膝元である長野県境付近【旧・妙高高原町】に限られていました。

検索結果の1番:妙高村1は 明治合併で旧5村の合併により成立。存続期間約12年半。
検索結果の2番:名香山村は 妙高村1の南側・関川村との合併により成立。存続期間約53年半。通算66年。
語源的には妙高山の古名である「越の中山」が、地名二字化[84087][37482]の影響で「名香山」と表記されるようになり、これが「みょうこう」と音読され、「妙高」の字を当てる現在の名になったと考えられます。
# 妙高から北に流れる頸城の関川は濁音ですが、同じ新潟県内の岩船郡に現存する関川村は清音です。

第2期は昭和合併の1955年から平成合併の2005年までの50年間です。
妙高を名乗る自治体の範囲は北に拡大し、「妙高高原町」と「妙高村2」との二本立てになりました。

戦後の経済復興を背景にした観光産業が盛んになり、田切川より北側の自治体もブランド力のある「妙高」を名乗るようになりました。時代も場所も違うので、妙高村2と表示して区別することにします。

検索結果の3番:妙高村2は 関山駅【信越本線がスイッチバック停車】のある関山村などの 昭和合併で成立。
平成合併までの50年間存続しました。
検索結果の4番:妙高々原村は 名香山村からの改称。こちらが 本家・妙高村を名乗りたかったのだと思いますが ブランド自治体名争い に遅れをとった結果でしょう。妙高々原村の存続期間は約1年半。
検索結果の5番:妙高々原町は 関川の上流・杉野沢村との合併を機会に町になった結果です。13年存続。
検索結果の6番:妙高高原町は踊り字「々」を廃して「高」を連ねた結果です。信越本線の駅名も「田口」から「妙高高原」に改められました。
「妙高高原町」は平成合併まで35年半存続したので、昭和合併と平成合併の間の通算50年が「みょうこうこうげん」時代ということになります。

そして第3期が 10年を越えた平成合併以後の期間です。山岳ブランド「妙高」を名乗る自治体の領域は、合併により高田平野の一角にまで拡大しました。

検索結果の7番:平成合併は妙高高原町・妙高村2を新井市に編入する形になりましたが、名前はブランド力のある「妙高」を使うことになり、全国的にも珍しい「編入/改称」となりました。

妙高山のお膝元の「妙高村1」から始まった「妙高名自治体」の領域は、116年の間に 上越市と境を接する平野部にまで拡大し、更に 10年後の北陸新幹線延伸(2015)では 自治体範囲を越えた「上越妙高駅」も実現しました。
[91956] 2016年 11月 16日(水)12:18:58hmt さん
Re:大町は村?
[91951] グリグリさん
Wikiのこちらのページに、長野県の大町に関して次のような記述があります。
>1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、大町として単独で村制を施行。
>4月10日 - 町制施行。町制に基づく「大町」となる。
(中略)
この情報の根拠を確かめることはできないでしょうか。

長野県における公文書館機能を担っているのは 長野県立歴史館です。町村制施行時の県令等の原本は、ここに保管されているものと推測します。
収蔵資料検索から『本県令達目録(明治3年~大正15年)』などの存在を確認しましたが、明治22年4月10日 大町の町制施行 を裏付けることができそうな県令・告示などの原資料名を発見するには至りませんでした。

原資料の代用となる二次資料について。
[76874] むっくんさん の労作「市制町村制施行時の府令県令(ver.5)」に引用されているように、『長野県現行令達類聚』(明治26年)という本の 上巻741コマ以下に 明治22年長野県令第18号 町村区域名称が収録されています。
問題の北安曇郡大町は 760コマであり、中段の新町村名には「大町」と明記されています。

これで問題解決か?
…そう簡単には問屋が卸しません。『長野県現行令達類聚』の凡例をご覧ください。
此書は明治4年11月置県以来明治25年12月迄の発布に係る本県諸令達中現行のものを類聚…
此書専ら専ら簡約を主とす 故に…改正増補の文字に改め旧文を存せず 欄外に於て其沿革のみを記載す

この『長野県現行令達類聚』は、発行時の現行実務に供することを目的とするものであり、そこに収録された「明治22年県令18号」は発令当時の内容ではなく、明治25年12月迄の改正が盛り込まれているのでした。

例えば 町村制施行 約2年後に町になった 諏訪郡上諏訪町は、明治26年発行の『長野県現行令達類聚』では 当然のように 上諏訪町として掲載されています。

但し 凡例に記されていたように、上部の欄外に「24年告示第27号を以て上諏訪村を上諏訪町と改称」との記載があり、「後発の町」であることが注記されています。

そこで、もう一度 760コマの 北安曇郡大町に戻ります。こちらには、上諏訪町に記されていたような上部欄外の記載が見当たりません。

私の調べた上記の状況から判断した結論。【グリグリさんの問に対する直接の返事にはなっていません。】

現状では、「大町は 1889/4/1に村制を施行した」と信ずるに足る証拠が証拠が 具体的に示されていない。
従って、大町は 1889/4/1に町制を施行した生まれながらの町である」とする趣旨の変遷情報を 改める必要はない。

余談:村と町との区別について

上記の本文では、便宜的に 村制・町制・生まれながらの町・後発の町 などという表現を使いました。
しかし、実はこれは私の本意ではありません。
施行当時の考え方としては 制度は「町村制」一つであり、「町制」「村制」を区別する「いわれ」はなかったと思います。
上に引用したように、「上諏訪村を上諏訪町と改称」と記されており、「町制の施行」とは表現されていません。
現行の「町になる要件」などという区別は、ずっと後に生じた慣行が制度化されたものです。
町村制施行当初、呼び名としては 宿・駅・町・村・新田・浦などを適当に使い分けていました。
しかし これは「便宜的な呼び分け」に過ぎず、制度的な区別は 本来無意味なことであると思っています。
[91948] 2016年 11月 14日(月)18:46:58hmt さん
四日市次郎丸村 過去記事紹介
11月に入ってから休眠状態だった hmt ですが、落書き帳のトップに掲げられた新規メニュー 短い読み・長い読みの市区町村を拝見して、少し眠りから覚めたので書き始めました。

最初は ウォーミングアップとして、四日市次郎丸村の過去記事紹介から。

この村の名は、読みの長さもさることながら、連称自治体名として記憶に残っています。
大網白里市誕生が期待された5年前にシリーズ記事を書いたことがあり、そこから手繰ったところ[79392]に 更に3年以上前に むっくんさん と okiさん による先行記事を引用していました。

今回の「長い読み」と合わせた記事集に仕立てましたので、関心のある方はどうぞ。

記事集 四日市次郎丸村

記事集 連称自治体名

蛇足ですが、新規メニュー:長い読みの市区町村 の中に、「1989(M22)」という誤記が多数あるようです。修正をお願いします。>グリグリさん
[91887] 2016年 10月 30日(日)22:57:21hmt さん
了解:中土佐/四万十
[91885]白桃さん
[91886]グリグリさん
(異動人口は)今回の確定地で7人に訂正されたと言うことでよろしいと思います。

私は[91872]の最後の文章を正しく理解することができなかったために、余計な記事[91883]を書いてしまったようです。
シロウトにとっては「ひねった表現」でなく、[91886]のように ストレートに書いていただいた方が有り難いのでした。
[91883] 2016年 10月 30日(日)15:02:45hmt さん
四万十川上流の町での境界修正・境界変更 これに伴う人口異動の不思議
[91872] 白桃さん
[90443]hmtさんの次の記事があります。【記事番号を修正、引用部分を省略】
[90077]【人口異動を伴う境界変更データ2011/5/18】と確報値の組替人口差は14人。これが、hmtさんの記事と関係有るのか無いのか考えているうちに頭が痛くなってきました。(笑)

書いた当人もすっかり忘れていました。改めて過去記事により経過を再録してみると、高知県高岡郡中土佐町大野見野老野(ところの)と同郡四万十町上秋丸との境界に関する問題であり、地籍簿【明治初年?】の記載と、自治体・住民を含めた地元の認識との間にズレが存在したことに起因するようです。

[76944][76945]の伝えるYomiuri Online 2010/12/2を要約
【A】中土佐町は1990年と2008年とに町境を調査。測量や公図などを基にした本来の境界線は、一般の地図に示された境界線よりも、最大で約200m東側【西側の誤記と推察】(中土佐町側)だったことが判明。これに従うと、大野見野老野地区4世帯7人の住所は上秋丸地区となる。中土佐町は2010年5月、7人に対して四万十町への住民登録変更を勧めた。

[90443]の伝える東京新聞 2010/12/16を要約
【B】7人は長らく中土佐町民として暮らし、住民税も中土佐町に納めていたが、2010年5月までに全員が四万十町に住民登録をし直した。
【C】だが「これまでの地域生活を変えたくない」などと町側に要望。両町議会は以前考えられていた通り【4世帯の東側】に境界を変更する議案を9月に可決、県議会も12月下旬に可決する運びだ。来年夏には国が新しい境界とし認める見通し。→2011/5/18総務省告示により境界変更 下記【D】(1)

【D】 平成23年面積調 p.102, 103
39401中土佐町 -0.05境界修正(2), +0.02境界変更(1)
39412四万十町 +0.05境界修正(2), -0.02境界変更(1)
境界修正(2) H23.3.18 高岡郡中土佐町長と同郡四万十町長の申請
境界変更(1)(H23.5.18総務省告示188号)高岡郡四万十町の一部を同郡中土佐町に編入

境界変更(1)の対象である2haは、Yomiuri Onlineの伝える「最大で200m」という境界線のズレと矛盾しない面積と思います。そして両町長の申請に基いて行なわれた境界修正(2)の区域5haはマスコミ報道には全く登場していない無人地帯であろうと推察します。
マスコミ報道【A】【B】が一致して伝える「7人」が正しいとすると、2011/5/18の境界変更の結果四万十町から中土佐町に異動した人口は7人のはず。
ところが、既に[90077]グリグリさんにより紹介されているように異動人口21人。
更に白桃さんの14人説[91872]も登場。
7人の住民票が中土佐町→四万十町→中土佐町と動いている間に増殖する筈もないのに…謎ですね。
[91804] 2016年 10月 22日(土)15:01:55hmt さん
道路標識の謎
[91798] じゃごたろさん
[91800] グリグリさん

茅野市中河原交差点。国道20号から県道16号へと入った先に設置されている106系標識に記された3つの行先地名。
解説と関連画像を示していただき、ありがとうございます。

今回の問題により私が認識した最も重要な知識は、「交差点に設置されている108系標識」と「交差点を過ぎた先に設置されている106系標識」との役割分担でした。
[91800]のリンク画像を借りると、国道20号中河原交差点南側案内標識には、問題の地点への左折路が案内されており、「国道152号・高遠」と記されています。
この標識は古いままで、「県道16号・岡谷」という新しい表記に変更するのが遅れているようです。

左折した先には問題の答えとなる「大鹿・長谷・高遠」という106系標識が設置されています。
中河原交差点で108系標識に従い左折した「進路が誤っていないことを確認する標識」としては、まさに「高遠」という地名が記されていなければなりません。

「交差点の後の106系標識は、交差点(手前)の108系標識の進路を確認する従属的な存在である。」

このように理解すれば、交差点前後の行先地名が高遠方面で統一されているという現実に 納得することができます。

しかし、後者の画像を見ると、進路を示す矢印に示された路線番号だけは 岡谷に至る「県道16号」に改められています。
左側の矢印に示された県道路線番号16は岡谷方面を意味し、右側の3つの行先地名は国道152号 高遠方面を意味する。
全く別の情報を共存させた標識は、利用者を惑わせるものではないか? いささか疑問を感じました。

ところで、大鹿・長谷・高遠という3地名、何れも一覧表に掲載されていない地名、つまり「一般地」です。
長野県の南部で中央構造線破砕帯を通り、通行止め箇所のある国道152号
原則として用いる重要地・主要地を選ぼうととしても思うに任せない。
その事情はよくわかるのですが、道路標識のルール3に示された原則が、空虚に感じられてしまうのでした。
[91784] 2016年 10月 19日(水)18:28:37hmt さん
Re:行き先はどこ?
[91760]じゃごたろ さん
先の地図リンクの場所に、岡谷市方面に向かう向きに106系の案内標識が設置されています。この案内標識の行き先には三つの地名が記載されているのですが、その地名とはどこでしょうか?

道路標識には疎い身でありながら、昨年のスレッドにも参加しているhmtです。

「106系の案内標識」と言われてもピンと来ないので、先ず 道の相談室・四国に掲載されていた案内標識LESSON で予習しました。
その結果理解したのは、交差点の手前や交差点部で見る108系案内標識とは、設置目的が違うことでした。
「106系の案内標識」は交差点を約150m過ぎた先に設置されており、進路が誤っていないことを確認する目的の標識(lesson02)であるようです。
表示される地名は、重要地・主要地・一般地にランク分けして限定(lesson03)。106系においては、上段より距離の遠い地名順。通常は市役所や町村役場正面地点までの距離(lesson04)。

出題された標識は、交差点を過ぎた後の進路確認が目的だから、直進方向の行先だけを考えればよい。
交差する道路の行先(例えば高遠[91772])を考慮する必要はない。
lesson04の例示には国道11号の表示があったが、今回の場合、長野県道16号が表示されているとは限らず、その起点「岡谷」までの地名に限定されることはないと思われる。

経路案内に用いる地名の表示方法によると、幹線道路に用いる地名は、重要地・主要地・一般地【ルール3「道路の分類と用いる地名」の表】であるが、106系標識には これに加え「基準地が最上段に表示される」とある。

一覧表から選ぶと、最も近い基準地「松本」が最上段。最も近い重要地「塩尻」が中段ということになる。諏訪市役所は直進経路上にないので、最も近い重要地は「諏訪」でない。
残る一つは、ルール3で第一ランクとされている主要地の「岡谷」を選ぶのが順当であろう。
「岡谷市街」や「諏訪大社(上社)」のような地名は、リストに示されていない「一般地」で、幹線道路に用いる地名としては第二ランクになるので、登場する余地がないように思われる。

ルールを正しく解釈しているか自信がありませんが、県道16号で「岡谷」、その先は国道20号で「塩尻」、更に国道19号で「松本」という「基準地まで直進するルート」を想定し、遠い方から「松本・塩尻・岡谷」と答えておきます。
[91563] 2016年 10月 4日(火)19:09:04hmt さん
杖立オフ会(3)佐賀・吉野ヶ里
日田彦山線が分れる夜明から先になると、熊本県で杖立川>大分県で大山川>三隈川と名を変えてきた川も福岡県に入って いよいよ「筑紫次郎」の本名の「筑後川」を名乗ることになり、車窓から少し北に離れます。久留米で乗り換えた後、再会した筑後川を渡ると佐賀県。9月19日は佐賀泊りです。

佐賀では 大浴場のあるホテルを選んで 予約しておきました。浴場で声をかけてきた 70代のオジサンは 運転好きで、全国を走っており、もう少し若い時には 九州から北方領土の見える地までドライブした と自慢していました。私が明日の飛行機で帰ると話したら、やはり「板付」という地名[91561]を口にしていました。

翌20日朝。ホテルのPCで空路の運行状況を確認し、無事に帰路途中であることを落書き帳に書き込み[91442]
外に出ると風は強いが、降雨なし。予定通り 吉野ヶ里歴史公園に向かうことにします。
19日に吉野ヶ里を訪れたスナフキんさんは、運悪く本降りの雨に見舞われたのですね。ML[off:00282]

体力と時間に余裕があれば、広い園内を巡りたいところですが、クニの首長を埋葬したと思われる 北墳丘墓 など限られた対象以外は バス車窓からの遠望だけで済ませ、後は想像の翼に任せることにしました。

おまけ:「ヶ里」地名について

地名コレクションの対象にはならないと思いますが、「ヶ里」地名の変遷情報検索結果です。

1889/4/1市制町村制施行時の旧村【合計17ヶ里村】の内訳:
佐賀県神埼郡神埼村の旧村:神埼郡田道ヶ里【1ヶ里】現・神埼市
佐賀県小城郡三日月村の旧村:小城郡 三ヶ島ヶ里, 長神田ヶ里, 織島ヶ里, 道辺ヶ里, 金田ヶ里, 樋口ヶ里, 久米ヶ里, 石木ヶ里, 甲柳原ヶ里【9ヶ里】現・小城市
佐賀県小城郡牛津村の旧村:小城郡 勝ヶ里, 乙柳ヶ里【2ヶ里】現・小城市
佐賀県小城郡三里村の旧村:小城郡 池上ヶ里, 栗原ヶ里, 船田ヶ里【3ヶ里】現・小城市
佐賀県小城郡晴田村の旧村:小城郡 畑田ヶ里【1ヶ里】現・小城市
佐賀県杵島郡錦江村の旧村:杵島郡 戸ヶ里村【1ヶ村】現・白石町

最後の杵島郡「戸ヶ里村」を例外として、「ヶ里」の後には「村」が付いていません。
旧村の「ヶ里」は地名の一部というよりも、「村」「町」「宿」などと同様に「集落の性格?」を示す接尾語であるように思われます。

村名ではありませんが、白石町・廻里江川(めぐりえがわ)付近の 戸ヶ里の他にも 現役の「戸ヶ里」を見付けました。それは 筑後川の河口近く、佐賀市の早津江川[91405]沿いの 戸ヶ里港で、佐賀県道313号 飯盛(いさがい【難読】)戸ヶ里港線が通じています。

また、神埼警察署の所在地は神埼市神埼町枝ヶ里です。
探せば、まだまだ「ヶ里」地名がありそうです。
[91562] 2016年 10月 4日(火)18:56:29hmt さん
杖立オフ会(2)ひぜんや・杖立から日田へ
「ひぜんや」の館内案内に、杖立川右岸に立ち並ぶホテルの写真があります。このページの一番下にある立面図と対比すると、写真左中程の玄関のある階が5階で、立面図は山を背にした道路側からの図【川沿いの写真と左右逆】であることがわかります。
写真の最も右側に見える建物が私達の泊った熊本館であり、高いエレベーターとその左の大分館【屋上に機械室】との隙間に、記念撮影をした両国橋があるものと推察します。両国橋の下を流れて杖立川に合流する小川が県境でしょうが、合流点の存在を推察させるものは、護岸の僅かな隙間だけです。地理院地図

この写真を見ると、入口・フロントを含む「ひぜんや」の大部分は大分県側であるように見えるのですが、ホームページに記された住所は、「〒869-2503 熊本県阿蘇郡小国町大字下城4223番地」となっています。この番地で住所検索(mapion、いつもNAVI)して地図上に示される位置に存在するのは、「ひぜんや」の上流側にある和風別館「大自然」でした。温泉街全体としては「熊本県の杖立温泉」で通用しているようであり、このことが住所表記にも反映しているのでしょう。

多忙なお仕事の中からぎりぎりの時間を作って参加された中島悟さんを含め 17人全員が揃い、大分県で宴会。
熊本県宿泊は学生時代の1954年以来62年ぶり【大分県は45年ぶり】。後に公害病で有名になった化学会社のクラブで、水俣湾の魚料理を御馳走になったことなど、近況でない報告をしたようです。

その後、熊本県に移っての二次会。デスクトップ鉄さんからJR駅三番勝負[91443]の賞品【原田勝正著:駅の社会史(中公新書)他】をいただきました。

最初に答えたのが問二の三鷹[91474]であったのは、出題駅・国分寺から出ていた東京競馬場前への支線【砂利鉄道[41599]由来】を思い出し、その近くにあり、戦後の短期間だけ存在した武蔵野競技場前への支線[75152]をすぐに連想した結果です。
もちろん、他の出題駅に関係する広島-宇品間[61378]などの条件も考慮した解答です。
…というわけで、単に鉄道路線に関する知識というよりも、その社会的背景も考察した上での 落書き帳記事に裏付けされた解答 でした。この機会に関連記事をリンクしておきました。
共通項に含まれていた「戦後廃止」とか「盲腸線」とかいう条件は、意識外のままセーフでした。

宿泊した熊本館2階からは、杖立川を間近に見ることができました。と言っても、それを実感したのは翌朝。

大分館6階の朝食の席で、ソーナンスさんに声を掛け、途中までの同乗をお願いしました。
ソーナンスさんは、個人的には阿蘇から熊本市内方面へ抜けて帰ろうかなとも思っておられたようでしたが、結局のところ hmt・デスクトップ鉄・EMMの3人が日田まで送っていただくことになりました。

前日は通過しただけの天領日田の街。町並み保存が行われている 日田市豆田町伝統的建造物群保存地区に行くには、市内循環バス(ひたはしり号)が運賃100円の実験運行中。これを使って駅前から豆田上町通りに出て、北へと歩きました。小雨気味ながら、傘を使うほどでもなし。花月川まで行き、一つ下流の御幸橋から豆田御幸通りを南下。

何気なく 日田醤油の 天領ひな御殿 に入ってみましたが、三千体以上という その量に圧倒されました。
醤油屋さんが無料で公開していた展示物から、天領日田に蓄積された財力と文化を感じた次第です。但し、チラシでは有料300円となっていたので、入場無料は期間限定だったようです。

いずれにせよ、じっくり探せば いろいろな宝を見ることができる街という印象を抱いた日田です。
平成の大修理中の重要文化財 草野家住宅も、公開スケジュールと合えば見たいところでしたが、これはダメ。
バスの時刻に合わせて 天領日田資料館を出て駅に戻ります。久留米行きのDCに乗ると、YASUさんに出会いました。
[91561] 2016年 10月 4日(火)18:44:47hmt さん
杖立オフ会(1)杖立への道
熊本大分県境の杖立温泉(ひぜんや)。ここが今年のオフ会開催地の有力候補として グリグリさんから提示されたのは 2016/6/6、メーリングリスト[off12:00162]によるものでした。
熊本大分地震被災地支援の目的で、開催地を被災地にしてはどうかという話が出ました。

私としては 杖立温泉は その名を聞いたことがあるという程度で、2県に跨る「ひぜんや」の名も初めて知ったのですが、被災両県の県境にある宿での開催については もちろん大賛成。当選確実を信じて さっそく自分なりに調べた情報も落書き帳に書き込みました。

これが 杖立オフ会事前書き込み の第1号なのですが、正式のアンケート告示[90573]よりも先走った記事になってしまいました。

[90564]
「肥後国と豊後国」に跨るのに 何故か「ひぜんや」。

既に和倉温泉の加賀屋については、[73144]白桃さん:能登にあるのに加賀屋とはこれいかに・・・
[73164]EMMさん:創業者が加賀国の出身
という問答がなされており、その逆の組み合わせである粟津温泉「のとや」旅館にも言及されています。
今回、現地で「ひぜんや」の由来を尋ねていませんが、この疑問は解けているのでしょうか?

落書き帳の過去記事に「ひぜんや」が登場するのは、10年以上前の [47510] 有明つばめ さん が最初でした。
「熊本館」「大分館」…はて、どちらの建物に泊まったかいな…その辺がよく思い出せません。

オフ会開催地としては、「今年はとは言わないですが」と断りながらも、早くも 2009年に 熊虎さん[69927]が提案。

余談ですが、2009年オフ会は 岡山市の政令指定都市移行を記念して苫田温泉・乃利武で開催。
斜行エレベータで7階から3階へ「上がった」り,訳の分からない構造[73356]の温泉大旅館でしたが、MasAkaさん[91459]により その後を知り、再び驚愕。
乃利武の公式サイトを探そうと思ったら、何と2013年に自己破産申請により閉館していたことが判明。嗚呼……)。

2009年オフ会では、有志9人による「岡山県石島・香川県井島 県境踏破」もありました。落書き帳のスターである この「県境の島」も 2011年8月の山火事で被災[79053]。過去のオフ会を振り返ることにより、改めて歳月の経過を実感しました。

そう言えば、岡山オフ会では、落書き帳の歴史に残る名作・グリグリ劇場も誕生しています。

岡山のことはさておき、今年の計画に戻ると、アンケートの結果、圧倒的な支持により杖立に決定。
時期は例年より早い9月18日支持が多数票となり、「ふっこう割」が利用できることになりました。
会場近くの国道通行止めに伴う迂回ルートとか、台風シーズン只中などが心配のタネ。
グリグリさんにとっては 準備や対策に大変だったことと察しますが、こちらは成り行き任せ。

独り暮らしご隠居の身は、日程の自由度が大きいのですが、それでも大まかな計画を立てます。
九州応援の趣旨を込めて、往復共にスターフライヤーの福岡空港便を利用。先ず航空券を確保。
杖立の後、九州のどこかで一泊となると、やはり唯一宿泊していない佐賀県を選択することになります。
体力の衰えを自覚し、欲張らずに旅をすることにしましょう。

福岡から日田・杖立・黒川温泉を結ぶ高速バスは、結局のところ杖立経由の本来のルートで運行することができませんでしたが、片側交互通行ながら、乗用車とローカルバスの通行が可能な状態にまで復旧し、広域農道経由の迂回ルートに頼らないで済むことになったのは 幸いでした。
こちらが「杖立への道」確保に気を揉んでいた割には、当の旅館側は 公共交通機関の運行事情のことなど あまり心配せず、悠然と客を待っていたようですね。

オフ会開催の9月18日。羽田からの飛行は順調。但し窓から見えたのは雲だけでした。
現在では専ら「福岡空港」と呼ばれているようですが、九州とは縁の薄い私でも、1972年に米軍から返還される前には「板付基地」と呼ばれていた飛行場であったことを覚えています。

「板付」の名は、弥生時代を主とする遺跡の存在でも知られていますが、板付遺跡は 飛行場から少し離れた南の方にあるようです。板付基地のあった場所は、1933年に福岡市に編入する前は【席田(むしろだ)郡[91558]>】筑紫郡席田村で、1944年(戦時中)に陸軍が作った「席田飛行場」が前身だそうです。街ネタ 福岡空港
#
厚木も横田も基地から少し離れた「よその地名」[22152]でしたが、板付も同類のようです。

それはさておき、福岡空港からは日田行きの高速バスがほぼ定刻に発車。しかし、間もなく豪雨の洗礼。
いよいよ台風16号の影響と直面することになりましたが、旅程が飛行機でなくバスに移ってからだったのは幸いでした。九州道から大分道とずっと大降り。
杷木で高速道路外に出て停車。ここでデスクトップ鉄さんと同じバスに乗車していたことに気がつきました。

大雨もこの頃になると収まっています。日田から同乗をお願いしてあるスナフキん号は16時頃なので、1時間以上の余裕がある。日田市内を少し見ることができるかと思っていたのですが、鉄さんのアドバイスに従い下車は取りやめ。
通信手段を持たないhmtは知りませんでしたが 鉄道が遅れており、日田駅を先発するJOUTOU号に変更することになり、かすみさん、鉄さんに加えて、3人目の同乗者として杖立に向いました。
報知されていたように工事中の区間もありましたが、それでも「ひぜんや」に早く着き、ゆっくり入浴することができました。
これも、鉄さんに出会い、JOUTOUさんに乗せていただいたおかげと感謝しております。

オフ会の都度、皆さんのクルマに同乗させていただいているhmtですが、JOUTOUさんには会津[79711]、石和[86778]、氷見[89247]、杖立と4回もお世話になりました。ありがとうございます。
[91515] 2016年 9月 26日(月)18:52:19hmt さん
謎の駅名・中部天竜(続続編)
[91511] デスクトップ鉄 さん
「大事典」によると、「なかっぺ」から「ちゅうぶ」への改称は、三信鉄道買収時(1943/08/01)となっています(鉄道省告示204号)。
(中略)
#鉄道省告示204号は、国会図書館のデジタルアーカイブで読めます。
官報(昭和18年7月26日)のコマ番号3からの記事で、買収した飯田線の営業開始の告示です。中部天龍にちゆうぶてんりうとフリガナを振っています。ここでまた新たな疑問が。「大事典」も中部天竜としていますが、天龍が天竜に変わったのはいつなのか。

昭和18年7月26日鉄道省告示第204号により、私鉄買収【飯田線関係4社、千歳線関係1社】と昭和18年8月1日からの運輸営業開始が告示され、飯田線の中部天龍(ちゅうぶてんりゅう)駅が 4/15コマに記載されていることを確認しました。

これにて、[43937]で記した 三信鉄道の中部天龍(なかっぺてんりゅう)→鉄道省線の中部天龍(ちゅうぶてんりゅう)という変化を 公式文書で確認することができました。感謝。

さて、天龍→天竜については、『時刻表名探偵』(石野哲 1979)p.240-【字体の話】にあるように、昭和29年(1954年)の当用漢字補正資料に基いて国鉄が字体を変更した結果であると思われます。
少し長文ですが、石野さんの本を そのまま引用しておきます。
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「條」は「条」の旧字体である。四条畷駅と五条駅の開業したのは戦前だから、鉄道公報は当然「條」で出ている。戦後の昭和21年11月16日「当用漢字表」が告示されたが、これが新字体となるのは24年4月28日の「当用漢字字体表」の告示によってで、国鉄の駅名も、当用漢字にある漢字は、自動的に新字体に読み替えられた(公報を出し直してはいない)。四條畷、五條も、四条畷、五条となった。さて市名の方だが、五條市の市制は昭和32年、四條畷市は45年で、新字体以後のことである。従って、意識的に「條」の字で市名を決めたことになる。中條、東條という苗字もあるから、「條」と「条」を別字と意識する気持ちもわからないではない。
戦後の開業なのに、意識的に旧字体を使っているのは山陰本線餘部(あまるべ)(餘は余の旧字体)。同じ兵庫県の姫新線余部駅と区別するためで、例外中の例外である。(余部=昭和5年、餘部=昭和34年)。
「竜」は当用漢字ではないが、当用漢字補正資料(昭和29年3月15日)で、将来当用漢字に追加すべきものとされた字=通称「補正漢字」(告示までいかなかったので法律上の効力はない)の一つ。これによれば、「竜」の旧字体が「龍」となっている。国鉄ではこれにならい、戦前に開業した、天龍川、中部天龍、天龍峡、龍王、龍野、本龍野、龍田、肥前龍王、潜龍、龍田口、龍ケ水は、すべて龍の字を竜に読み替えた。戦後開業の「竜」のつく駅は三つあるが、これは鉄道公報を尊重して、龍岡城、龍ケ森、九頭竜湖と使い分ける。結局、「竜」12対「龍」2。
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前述のように、1934年三信鉄道開業時は佐久間駅で、所在する佐久間村からの命名です。なぜ、これを中部天竜に改称したのかも疑問です。中部(なかっぺ)村は、1989年3月の市町村制施行時に佐久間村を構成した旧村ですが、25000分の1地形図の 図幅名に使われるくらい著名な地名だったのでしょうか。

確かに、三信鉄道の駅が最初にできた地名は静岡県磐田郡佐久間村半場であり、初代佐久間駅は村名に基づくものだったでしょう。
しかし、鉄道は近々延伸され、第2の駅を佐久間にも作ることを考えると「佐久間」の駅名に固執することは賢明でない。
改称するとなると旧村名の「半場」か? 地形図を見ると 天竜川右岸の半場は大部分が山地で、平地は限られている。
駅のある半場の対岸・天竜川曲流部にある中部(なかっぺ)も広い平地とは言えないが、佐久間・浦川と結ぶ街道が通っており、拠点性がある。そんなことから駅名に選ばれたのではないでしょうか。

このようにして、1935年5月には早々と中部天龍駅への改称が実現。でも1936年11月の延伸時に佐久間に作られたのは佐久間水窪口停留場という名でした。これが1941年2月に貨物も扱う一般駅に昇格後、2代目佐久間駅を名乗るようになったのは、1941年11月でした。

混乱した過去記事整理の意味も含め、この駅と隣駅に関係する変化を年表に記し、まとめとします。

1934/11/11 三信鉄道延伸開業:三信三輪【現・東栄】- 佐久間【現・中部天竜】間 (11.1km)
1935/05/24 改称:【初代】佐久間→中部天龍(なかっぺてんりゅう)
1936/11/10 延伸開業:中部天竜-天龍山室【1955廃止】間(7.2km)
  この時佐久間村佐久間に佐久間水窪口停留場開業
1937/08/20 大嵐-小和田間 (3.1km) を最後に三信鉄道全通。私鉄4社により豊橋-辰野間全通。
1941/11/15 改称:佐久間水窪口→【現】佐久間
1943/08/01 伊那電気鉄道・三信鉄道・鳳来寺鉄道・豊川鉄道を買収国有化。鉄道省飯田線
  4/15コマ:中部天龍ちゅうぶてんりゅう、佐久間さくま
1949/04/28 当用漢字字体表【該当する文字は、これに基づく新字体に変更】
1953/04/16 電源開発【Jパワー】佐久間発電所着工
1954/03/15 当用漢字補正資料に基づく新字体への変更:中部天龍→中部天竜
1955/11/11 佐久間ダムで水没する 旧線・佐久間-天龍山室-大嵐間 (13.3km) を廃止
  東側の水窪谷を遡り大原トンネルで戻る新線・佐久間-水窪-大嵐間 (17.3km) が開業
1956/04/23 佐久間発電所運用開始
1991/04/21 東海旅客鉄道が佐久間レールパーク開館
2009/11/01 佐久間レールパーク閉館
[91507] 2016年 9月 25日(日)23:54:30hmt さん
謎の駅名・中部天竜(続編)
[91503] Takashiさん
駅名の接頭語ではないのですが、飯田線「中部天竜駅」の「中部」が登場したので、フォローしておきます。
タイトルに続編と書いたのは、2005年の過去記事[43937]を踏まえたものだからです。

[91503]に記されているように、「中部」は駅の対岸にある地名です。
地名としての読み方は、現在では「なかべ」が普通に通用しているようですが、元々は[43384]で示されている「なかっぺ」が現地での正式の読み方であったようで、25000分の1地形図の 図幅名は 「なかっぺ」となっています。

開業当初は「なかっぺ」と読んでいたらしいのですが、

Wikipediaにあるように、1934年に三信鉄道が開業したした当初は、【初代の】佐久間駅で、翌年に中部天竜駅(なかっぺてんりゅうえき)に改称したようです。
訓読みの「なかっぺ…」から音読みの「ちゅうぶ…」に改称した時期について、[43937]では戦時買収に伴うものと記しましたが、Wikipediaによると 1942年【買収の前年】届出とあり、出典も記されていました。

タイトルは、落書き帳にも度々登場している『時刻表名探偵』(石野哲 1979)p.218から借りたものです。
この本には、逆順のように思われる 中部【地名】天竜【修飾語】の語順の謎が示されていますが、名探偵も「…謎は残る」と結んでいます。
[91442] 2016年 9月 20日(火)08:05:21hmt さん
無事に帰路途中
hmtです。
帰路途中、佐賀のホテルでPCが使えたので無事を連絡しておきます。
午後に空路帰宅する予定ですが、たぶん問題ないでしょう。
[91406] 2016年 9月 16日(金)19:05:48hmt さん
地域創造に挑戦する大山町
[91405] 杖立川 を書く過程で眺めていた地図で、杖立と日田の間にある一つのダム湖が、なんとなく目に止まりました。

ダム便覧で 調べてみると、大分県日田郡大山町は 村起こしで有名な「一村一品運動」発祥の地でした。

大山町の立地は山間部で稲作の好適地ではない。でも頭を使って特色ある農作物を創造すれば、豊かな未来を実現できるのではないか。
50年以上前の話になりますが、1961年に始めたのが「ウメ・クリ植えてハワイへ行こう」というキャッチフレーズで始めた特産物の栽培、加工による村起こし運動でした。その成功を見た当時の大分県知事平松守彦により、「一村一品運動」は大分県全体に広がりました。

このような実績のある地域ですが、筑後川水系は1953年の大水害(梅雨前線)を始めとする治水問題もかかえ、国土利用を計画するにあたってのダムのあり方など、解決すべき問題が残されていました。
赤石川沿いの谷間にあった大山町が選んだ方策は、地域を良くする手法として国の事業を取り入れること。町としてはダム造りが目的なのではなく、地域振興のためのダム建設。

こうして 1979年には ポスト「ウメ・クリ運動」としての水資源対策活動がスタートしました。
1991年の台風による風倒木被害に教えられた水源林づくりを長期計画で推進。大山町の水の最大利用者である福岡市との協力体制。ユニークな発想による「おおやま生活領事館イン福岡」を実現。
河川維持流量を確保して、響き鮎の育つ大山川を再生。ウメ・クリ運動の原点とも言える「梅文化」をテーマにした観光施設を運営する会社組織。そして次世代の育成。

杖立訪問を機に調べた結果、偶然出会った 三笘町長の講演を題材にした 大山町の地域作りの概要です。
私の理解は未熟ですが、各地での地域振興の参考になれば幸いと考え、記事にしてみました。
末尾の まとめページをリンクしておきます。関心のある方は、全文にあたってみてください。

落書き帳関連ではダム湖コレクションへの情報提供>美濃織部さん
ダム湖の名は「烏宿湖」です。出典は冒頭付近でリンクしたダム湖便覧。
烏宿湖 うしゅくこ 筑後川水系赤石(あかし)川 大分県日田市大山町 大山ダム

もう一つ、熊本県側で偶々目についたダム湖
斑蛇口湖 はんじゃくこ 菊池川水系迫間川 熊本県菊池市龍門 竜門ダム
[91405] 2016年 9月 16日(金)15:19:05【1】hmt さん
杖立川
オフ会を前にして、天気を気にしながら、開催地付近の地理の「にわか勉強」を始めた hmtです。

「杖」を頼りに歩行する身としては、「杖立」という地名が 気になります。
甲州や四国には「杖立峠」があるようだが、九州の杖立の由来は?
温泉の薬効で寝たきりの人が杖で立てるようになったとか、各地に残る弘法大師の逸話とかもあるようだが、どうも温泉の宣伝くさい。

私が自分勝手に尤もらしいと思っている自説を紹介してみます。

大分県豊後国日田郡。東でなく、西の有明海に注ぐ筑後川の流域という異色の位置。
日田盆地には、大別して3方向から川が集まっています。一つは久住山北麓から日田へと西流する玖珠川で、かつては 流路の長いこの川が 筑後川の本流とされていたようです。

現在の本流は、阿蘇外輪山北側から 熊本県内を北西へと流れる杖立川です。
杖立川の上流を辿ると、南小国町東端付近から国道442号沿いに 田の原川 という名で流れており、小国町宮原で 志賀瀬川 を合流した後で 杖立川 という名になります。杖立温泉の少し先で 津江川 を合流していましたが、松原ダム完成後の合流点付近は 梅林湖 になっています。
松原ダムを過ぎると 大山川 という名になり、途中で大山ダムから流れてくる 赤石川 と合流し日田盆地に集まります。
川の本流の選び方はいろいろあるようです。阿賀野川の記事[67150]では 勾配説を支持しましたが、筑後川の場合は 流域面積の広さから 大山川・杖立川が本流に選ばれたようです。

3番目は、主として津江山と呼ばれた日田郡南西部の山地の水を集めてくる 津江川 です。その上流は鯛生金山[91329]のあった中津江村や、上津江村の 川原川 などで、下筌(しもうけ)ダムの蜂の巣湖[91229]を経て 前記松原ダムの手前で杖立川に合流します。

その 丁字形合流点の姿に基づいて、阿蘇の北から流れてきた方を「津江(つえ)竪川(たてかわ)」と呼んだのではないでしょうか。
参考までに、川の「たて・よこ」については、[75307]の末尾に説明してあります。

「杖立」に関する詮索はさておき、筑後川の範囲を国土交通省の地図で確認してみました。
筑後川河川事務所によると、「その源を熊本県阿蘇郡 瀬の本高原 に発する筑後川」と記されています。

つまり、筑後川とは 南小国町東端付近の高原から発する「延長143kmの幹線流路全体が筑後川である」ということのようです。
筑後川管内図indexは4段5列に分割されており、 杖立温泉は3段4列目の14図になります。
管内図 14を開いて見ると、その右下付近、赤丸「小国」の上流側に「筑後川」の名が明記されていました。普通の地図に記されている名は、田の原川→杖立川→大山川→三隈川→筑後川と変ってゆくのですが、河川管理上は一貫して「筑後川」ということなのでしょう。
【追記】
管内図の凡例(10図):赤丸は雨量観測所、緑丸は名所旧跡

三隈川→筑後川はアーカイブズ 場所によって名前の変わる川にも収録されていますが、日田の上流で更に3種類もの違う名前が使われているのは、特筆に値すると思います。

なお、管内図の筑後川源流部は3段5列目 15図の下方、南小国町東端付近です。少し西の国道442号沿いには赤丸「黒川」があり、こちらが福岡からの高速バス終点と推察します。【14図右端の緑丸「黒川温泉」は誤記?】

今回は日田盆地よりも上流部を話題にしました。
そこには、下流部の平野を蛇行する常識的な「筑後川」とは 大きく違う  林業地帯が広がっていることを認識しました。
国土交通省の 明日を拓く川~筑後川 には、歴史・地域・自然・災害の4章に亘る解説がありました。
最後に、本来の?筑後川に関する余談を2項目だけ付属しておきます。

1 早津江川【管内図11】  河口近くにも津江川の仲間がある? [42269] 2県にまがたる中州

2 ちっこ川 かぱぷうさんのメーリングリスト[off:00066]により、この呼び方を知りました。
[91353] 2016年 9月 7日(水)18:25:59hmt さん
品川新駅(仮称)
昨日、JR東日本から「品川開発プロジェクトにおける品川新駅(仮称)の概要について」の 発表がありました。

ニュースでは駅舎デザインが話題になっているようですが、オリンピックを考慮した 2010年春の仮開業、品川開発プロジェクトの街びらき時の 2024年頃の本開業 というスケジュールも、今回発表の目玉でしょう。

2012年の新駅計画発表時から議論沸騰が伝えられる「駅名」については、今回の発表では全く触れておらず、「品川新駅(仮称)」と呼んでいます。

参考までに、この新駅開設に関係する過去の「いきさつ」を簡単に記しておきます。

上野以北と東京駅以南に直通する中・長距離旅客列車の運転は、占領下の専用列車[51787]に始まり、その後「湘南日光」などの観光列車や高崎線・東海道線の中距離電車なども運転されました。しかし、線路容量の制限から極めて不十分な状態のままで、東北新幹線の上野・東京間延伸工事を迎えることになり、1970年代には事実上この区間の直通列車はなくなりました。
その後、東北新幹線も東京駅に達し(1991/6/20)、乗換は必要なものの、新幹線による長距離列車の南北連絡を実現しました。
在来線の中距離電車も、【東京・上野は通らないものの】湘南新宿ライン開通により南北間直通を実現しました(2001/12/1)。

新幹線工事前に細々と行なわれていた上野・東京間の中距離電車直通。これの再開ではなく、改めて本格的な直通を初めて実現させたのが、2015/3/14に開業した上野東京ラインです。
その影響の及ぶところは、乗客の利便向上【旧始発駅利用者の利便は低下】だけではありません。

東海道の湘南電車と東北(宇都宮)・高崎線の中距離電車をスルー化する事業の一環で,田町-品川間に広がる車両基地が不要になるのでここを再開発するのに関連した計画
この点が重要なわけです。
2012年正月の第1報を伝える 落書き帳記事をご覧ください。
その後で発表された「特定都市再生緊急整備地域」[80215]に指定された品川地区は勿論のこと、上野の地位にも影響します。
[91332] 2016年 9月 5日(月)15:36:18【1】hmt さん
小田原市・南足柄市の将来のあり方に関するアンケート
[91331] 山野さん
此処を見て変遷(予定)情報見るも・・(中略)
小田原市・南足柄市の将来のあり方に関するアンケート
既に結果が公表されてはいるものの、誰も書いてない様なので載せて置きます。(中略)
(合併等が必要:41.01%)
(どちらかと言えば:32.22%)

最初は、「誰も書いてない様なので」について。
変遷情報の詳細に未成立の合併情報が記載されているのですが、発見されていなかったようです。
これは誰でもやる見落としですが、順序として 一応 所在を明らかにしておきます。

【追記】山野さんにお詫び
[91333] グリグリさんの記事により、山野さん自身により既に削除されている記事[91331]は、アンケート結果の公表を記した「2016/8/16付変遷情報」の更新よりも先であったことを知りました。従って、上記の部分に記した「発見されていなかった」「見落とし」は事実でなかったようであり、これにより気分を害されたことをお詫びします。
更新履歴は見ていなかったので、[91331]と同日であることに気付きませんでした。>グリグリさん
【追記終】

市区町村変遷予定情報都道府県別一覧に次の項目あります。
18 神奈川県 (日付:なし)変更種別:未定 ○○市 小田原市, 南足柄市, 8町村を列挙 詳細

詳細の 2016/2/3 に「合併を含め広域連携の可能性を探る2市協議会を10月に設置する」記事があり、最後の 2016/8/16 にアンケート結果の公表が記録され、次のような表現になっています。
合併、中核市移行、広域行政について両市で検討協議することに賛成する意見が多数を占めた。

ここでは「賛成多数」と簡略化されています。詳しく知りたい読者のために、敢えてアンケート結果の一部を小田原市の資料に基づいて再録すると 次のようです。
-------------
問3 「合併」「中核市移行」「広域連携」について検討協議することについてどう思いますか
1 必要である・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 41.01%
2 どちらかといえば必要である・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 32.22%
3 どちらかといえば必要ない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5.30%
4 必要ない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4.99%
5 わからない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 14.97%
※ 未回答・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1.51%
-------------

情報は 詳しく伝えた方がよい というものではなく、読者の為を考え、簡略化して伝えることも必要です。
しかし、簡略化したために、誤解を与えることになっては困ります。

今回のアンケートについて言えば、そののポイントは「賛否の数字」よりも、市民が要否について回答した「設問3の対象」にありました。
[91331]で記された「合併等が必要:41.01%、どちらかと言えば:32.22%」という表現では、「等」を見落とした読者により、「合併賛成が7割もあったのか」と 誤解されるおそれがあります。

「合併」「中核市移行」「広域連携」について検討協議すること
という設問3の対象を安易に簡略化するのは危険です。

これから先、簡略化した情報提供をしていただく際の参考になればと考え、敢えて一筆を記しました。ご了承ください。
[91329] 2016年 9月 4日(日)16:33:32hmt さん
金山
[91324] 伊豆之国さん
[91327] Takashiさん

「金メダル」がランキング最高位を示す言葉であることは、この落書き帳の十番勝負などでも使われています。
金メダルの元祖?であるオリンピックの金メダルは、銀製メダルの表面に6g以上の金メッキしたものと定められているとか(規則70 付属細則2-2)。

それはさておき、金属としての素材価格は金と同水準の貴金属【白金やロジウム】もあるのに、それらを遥かに凌ぐ人気を集めているのは、金独特の「黄金色」と、金貨や工芸品として親しまれてきた?歴史の重さがあるためと思われます。

その金を産出する国と言えば…反射的に南アフリカと答えてしまうのは、10年前の知識でした。
金の国別産出量の推移を見たら、中国が躍進していることに驚きました。
世界全体の生産量も年間3000tで、白金の200t、ロジウムの30tとは桁違いの規模であり、旺盛な需要に応えています。

では、マルコポーロが 黄金の国ジパング と紹介した日本の現状は?
2013年の世界ランキングを見ると、金の生産量は世界40位の 7.4tでした。
生産量には廃棄物リサイクルや輸入鉱石からの生産量も含まれるでしょうから、国内金山からの産出量は これより少ないと思います。

その中で年間約7tの金を算出しているのが、鹿児島県伊佐郡菱刈町から 2008年に伊佐市になった菱刈鉱山です。規模は外国の鉱山よりも小さいながら、鉱石1tに平均40gの金を含む 高品位の鉱石を産出しています。

住友金属鉱山の特設ページには、日本の主要金山における産金量累計値(2015年3月末現在)がありました。
これによると、菱刈は長い歴史を持つ佐渡が閉山までに算出した金の2倍半以上を産出して稼働中。
3位の鴻之舞鉱山(北海道オホーツクの紋別市)も住友で、1955年の約3tが最高。
4位も鹿児島県で、三井串木野鉱山は、2009年に採掘再開とあり、また薩摩半島南端に近い知覧町【2007年南九州市】に赤石鉱山を操業し、金鉱石の採掘を行ない、国内の銅製錬所に販売しているそうです。

5位の鯛生(たいお)金山も、昭和初期の全盛期には東洋一の金産出量で、従業員3000人の大金山だったそうです。
1972年閉山となった鯛生金山跡は、佐渡鉱山と共に経済産業省による 近代化産業遺産群33 の一つ「19.金山」として認定されました。
鯛生金山の年間産金量は1938年に2.3tを記録し、佐渡を上回る日本一の金山になった記録もあります。リンクの 68/121コマ。

鯛生金山の跡は、地底博物館・鯛生金山 として公開されています。
その所在地は日田市中津江村[91229]。9/18にオフ会が開かれる杖立温泉から梅林湖・蜂の巣湖沿いに遡り、国道442号に出た地点から西に進んだ大分・福岡県境付近です。

ここで会うたも何かの縁 遊んでいってくんなまし
オフ会にクルマで参加する方の中で、翌日に 鯛生金山跡を地底探検してみる気になった方が出現するようならば、ぜひとも連れて行っていただきたい。そんな下心も含めての金山紹介でした。
[91310] 2016年 9月 1日(木)19:19:45hmt さん
固有名詞の表記
今年からマイナンバー制度の利用が始まっています。…と言っても、これまでのところ、生命保険会社から通知カードのコピー送付を依頼された程度だったのですが、最近 銀行取引に関連し、口座名義人、即ち「人名表記」の変更を求められる事態を経験しました。
これが、マイナンバー制度開始に伴うもののようなのです。

もちろん、こちらのサイトの対象である「地名表記」の問題ではないのですが、固有名詞としては同類なので、無関係とは言えないように思われたので、これを機会にご紹介しておきます。
全国銀行業界のページによると、ある種の取引を行う際に「マイナンバーの提示を伴った本人確認」が求められており、それに対応する趣旨のようです。

私の場合、もちろん偽名やニックネームで口座を作っているわけでなく 本名の口座なのですが、その中の1文字が戸籍に記載された旧字体でなく、新字体【当用漢字→常用漢字】で通帳に印字されていました。
何十年も前に開いた口座であり、当時の通帳に使われた字体の確認はしていませんが、銀行業務が電算化した初期には 使える漢字が限られており、戸籍【昔は手書き文字】と同じような旧字体が使えなかったので、世の中に広く使われている当用漢字体による印字が 自然に採用された可能性が大きいものと推察します。

その後、電算機の性能とそれが利用される社会環境は大きく変りました。住民基本台帳や戸籍簿の電算化だけでなく、国語政策にも変化がありました。そして訪れたのが、マイナンバー制度による一元管理【名寄せ】への動きです。

本人確認の際に提示するマイナンバー通知書には、旧字体【電算化により改製された戸籍簿に使われているもの】が印字されています。
銀行の口座には、常用漢字として通用している新字体が使われています。
旧字体の印字と新字体の印字は「同じ字」であるか否か? 
また、「文字の同一」と「人物の同一」との関係は? 最初に、ここらから考えます。

「同じ字であると認める」【A】ならば、本人確認は簡単でしょう。しかし「字体が違うから別の字である」【B】と考えると、少し慎重に進める必要があります。銀行協会のページにある“「通知カードおよび運転免許証などの本人確認書類」などを提示してください”という言葉は、別の字である可能性がある場合に対処する準備に役立つと受取ることができます。運転免許証の写真等を併用することにより、仮に【B】だとしても本人確認の目的を達することが期待されます。

少し戻りますが、「戸籍に使われた文字」が正しいとして、それは「手書き」から電算機による「印字体」に変更されているのですから、求められるのは「画像としての一致」ではなく、文字を認識する脳の働きをふまえた上で、手書き・印字の違い、旧字体・新字体などの書体を超越した「文字としての同一性」です。

「一点一画をも揺がせにせず」などという言葉があります。確かに「大」・「太」・「犬」のように一点の有無や位置で別の字になってしまう場合もあります。
しかし、大多数の漢字では人間の脳はもっと融通が効く、悪く言えば「いいかげん」なものです。
「森鴎外」をご存知でしょうか?
「鴎」という字の左側は本来「區」です。しかし簡略化された「区」が当用漢字に採用され、更に形声文字「駆」のパーツとしても使われました。「かもめ」の場合は当用漢字対象外なので公式の新字体は制定されていませんが、人々はこの考えに順応し、字書に存在しない「鴎」という字を自然に受け入れています。
【注意】法律上は人名漢字にもなっていませんから、出生届に「鴎」を使うことはできません。

要するに、構成要素(例:画数)に明らかな相違があっても、「同じ字」を表わす記号であることは否定されません。
特に当用漢字→常用漢字に制定されている新字体は、国家自らが約70年もにわたり「同じ字」として、使用することを奨励してきた実績があります。
そして、常用漢字のような公式の字体が制定されておらず、【B】の疑いがある場合でも、「運転免許証などの本人確認書類」の併用によって、本人確認の目的を達することが期待できます。

次に、国語政策における固有名詞の扱いを見ます。
1946/11/16の内閣告示で1850文字の当用漢字を制定した際の趣旨は「漢字の制限」が あまり無理なく行われる めやす であり、「使用上の注意」の冒頭に掲げられたのは、次の言葉でした。
この表の漢字で書きあらわせないことばは,別のことばにかえるか,または,かな書きにする。

しかし 固有名詞については、当用漢字表「まえがき」で “法規上その他に関係するところが大きいので、別に考えることとした”としており、「大阪」を「大坂」と書き換えることは実行されませんでした。

その反面、仙臺・横濱・金澤 などは、当用漢字採用時に「自動的に」当用漢字の簡易字体を使った 仙台・横浜・金沢 という表記に変りました[74082]
つまり、「同じ字」の簡易字体採用は、固有名詞であっても躊躇なく行なわれたと理解されます。
銀行の電算化に際して「同じ字」の新字体が使われたのは、社会通念上当然のことでもありますが、地名についてのこのような事例に照らしても、十分に理解できることです。

70年後の現在、当用漢字制度は常用漢字制度に変っています。
こちらでは「まえがき」改め「前書き」から「漢字の制限」という言葉がなくなり、字数も1945字(1981年)から2136文字(2010年)に増加しています。固有名詞については、更に人名用漢字も大幅に許容されており、国語行政は 70年前の漢字制限時代から 多様な表記を認める方向に変化したことを感じます。

旧字体の個人名に愛着を持つ人が多い中で、戸籍電算化を進めた背景にはそれなりの労苦もあったこととは思います。
それに基づいて実現したマイナンバー制度も、ある程度 多様な表記を個人に認めています。
だからといって、当用漢字→常用漢字制度が戦後の社会にもたらした大きな成果である「表記の平易化」・「表記の共通化」に反する結果に通じる動きには警戒を要すると考えています。

ここで、難しい漢字が使われた地名の代表格「鹽竈」について言及しておきます。
自治体名は1889年から平易な俗字を使った「塩竈」になっており、これが1941年の塩竈市に引き継がれています。そして、「竈」(かまど)とは意味が違う別の文字を使った「塩釜」さえも混用されているのが現実です。例:塩釜駅。
市役所自身は本来の「竈」を使いながらも、市民や他の官公庁が「塩釜」と表記した文書については、「塩竈」と解釈して受理するとしています。出典
自分の「こだわり」を持ちながらも、社会的に通用している異表記も認める。このような態度は参考になります。[74061]
「こだわり」の類例としては、わざわざ 2点しんにゅうの「蓮」に改称した蓮田市の例[77399][77400]も出ましたが、これはちょっと「やりすぎ」。

推測ですが、政府が求めているのは マイナンバーによる本人確認だけであって、字体の相違を厳密にチェックしろと言っているわけではないでしょう。制度の趣旨は 社会基盤としての共通番号であり、「名寄せ」による脱税防止は期待しているでしょうが、無用な負担を民間に負わせるものではない筈です。

今回の件で、銀行が字体の僅かな違いを気にして口座名義の変更を求めたのは、民間企業の過剰な自衛本能が働いたものであり、法的根拠に基づくものではないと推察しています。
私自身としては少し驚いたものの、手続自体 さほど面倒なこととは思っておらず、応じるつもりです。

この記事を書いているうちに感じたのは、本当に「モノ申すべき相手」は、マイナンバー制度でも銀行でもなく、字体の僅かな違いを拾い出して「別の字」と決め付けたがる社会傾向ではないかということです。

学校で経験した「書き取り」における厳密な採点から、字体の微差を許容しない習慣が身についた人々。
これに個人的な好みが結びつき、更には電算機技術の発達が多数の文字種を実現させ、それに別々のコードを付けてしまった。
こんな事情から無用な漢字が電算機で使えるようになり、検索洩れを引き起こす原因にもなっている。

世の中には「正解は一つだけ」ではなく、「どちらも正しい」ことが たくさんあると認識しましょう。
おおらかな態度で接しましょう。「いいかげん」とは「良い加減」、つまり「許容範囲が広い」ことです。
この記事で指摘した問題も、実は杞憂にすぎないものだった。そのようになる社会の実現を願っています。長文をお詫びします
[91296] 2016年 8月 30日(火)23:11:37【1】hmt さん
JR北海道 平成27年度 輸送密度
[91295] 山野さん
(廃止検討対象区間)輸送密度500人キロ未満の7線区

タビリスを見たら、下記のように記されていました。
2016年度決算【2015年度決算の誤記】で輸送密度500人未満の線区は、以下の9つです。【記載は8線区】

ご指摘のように記載洩れや誤記がありそうなので、JR北海道平成27年度決算(H28/5/9)を確認しました。

8/10コマに 利用状況のデータと 輸送密度別路線図とがありました。
これを見ると、運休している日高線が 全社平均を出している主表から除外されていますが、欄外に別記されているように、輸送密度 【注】185人/km/日です。
日高線を加えると 輸送密度500人未満の区間は 9つになります。
廃線が実質的に決った留萌~増毛と新夕張~夕張の2区間を除けば、廃止検討対象は7区間。

なお、この表には JR北海道全線区のデータが掲載されています。
全線区のデータ公表は、平成26年度からとのこと。

【注】輸送密度
1980年の国鉄再建法[85139]の時に、幹線と地方交通線とを仕分ける目的で使われた「モノサシ」では、輸送密度4000人/km/日が基準値として使われました。
JR北海道が 今後も単独で維持することを目指す(日経)という 2000人/km/日でさえ、その半分です。
状況は誠に厳しい と言わざるを得ません。
[91282] 2016年 8月 27日(土)18:43:27【1】hmt さん
米軍統治下の沖縄
[91263] グリグリさん
先週放送された NHKスペシャルを紹介していただきました。
米国統治下の沖縄に関係するこの件については、私もフォローしたいと思っているのですが、未知のことが多く、まとまった意見を記すことができません。

散発的な書き込みになってしまいますが、とりあえずのメモを記録に残しておきます。

終戦後の沖縄の市は、言わば難民キャンプと呼ばれるものでしたが、番組では収容所という表現で紹介していました。

「収容所」という表現は、琉球の風さんの[1188]を始めとして この落書き帳でも度々使われてきました。
地上戦により日本の行政機構は壊滅しており、居所を失った住民の収容施設は米軍の軍政下。
不完全ながら日本側が関与するようになったのは、戦火が収まり沖縄諮詢会が発足した後の地方行政緊急措置要綱。この要綱で「市」と呼ぶことになった住民収容所の自治組織は 1945年9月に発足。沖縄本島12市の他に 粟国,伊平屋,慶良間列島,久米島の各市があり 合計16市[1260][4680]

また、そこに収容された人々は、沖縄本島で難民となった人たちではなく、終戦前に日本本土に移動していた(疎開?徴用?)沖縄人10万人を沖縄に強制移動させた人々のことでした。

これは誤解部分があり、沖縄本島で難民となった人たちの収容所【16市】と別に、本土の「沖縄人10万人」を沖縄に強制移動させた際にできた収容所があったことを指しているように思われます。
1946年には日本から琉球への入域者が 10万人以上あったという統計があります。出典

これが日本から強制移動させられた沖縄人労働力ではないかと思い 少し調べてみたのですが、その実体解明に役立つ手がかりは得られませんでした。
ちょっと気になる存在が 後に「みなと村」[1219]になった地域です。これは那覇港の荷役労働関係かと思いますが、軍事基地関係作業で必要とされた労働力を集めた収容所地域が、他にもあったのではないかなどと想像してしまいます。

この番組に対する批評も出ています。

鈴木祐司さんの記事の中に、次の記載がありました。
“空白の1年”の1年後には決定的な出来事もあった。通称「沖縄メッセージ」と呼ばれる昭和天皇からマッカーサーに宛て送られた「米軍による沖縄占領状態を長期間継続させることを依頼するメッセージ」である。

既に象徴の地位にあった天皇が このような意見を示したと伝える話を知り、驚きました。沖縄県公文書館, Sebald文書 , あの日の沖縄_1947/9/22

「メッセージ」に関連する矢吹晋さんの論評 ちきゅう座

テレビで報道された基地問題につながる沖縄の戦後問題。
ちょっと調べてみただけで、まだまだ知らないことが多いことを実感しました。
[91229] 2016年 8月 17日(水)18:59:19hmt さん
杖立への道
オフ会が開かれる杖立温泉に通じる道は 国道212号ですが、日田方面から向かう途中、熊本地震による通行不能箇所が生じています。
オフ会メーリングリストでは、既に 2016/7/2に かぱぷうさんの詳細な報告がありました。
福岡から日田・杖立温泉経由の黒川温泉行きの大型バス運行ルートが通行不能になり、熊本県小国町役場付近の「ゆうステーション」経由の迂回運転を余儀なくされている。
このことについては 現在も変らないのですが、乗用車の迂回ルートは、その後短縮されました。

現在の 国道212号迂回路図 には、日田IC~杖立温泉所要時間(乗用車)が1時間15分から45分へと30分短縮されたと記されています。
以前の乗用車迂回路は、杖立温泉東側の山中を広域農道経由熊本県に入るもので、小国町役場付近迄は南下しないものの、大型車迂回路に近いものでした。

もう少し詳しく記すと、日田市大山町汗入場(あせりば)地区の田北トンネル付近が9月末まで全面通行止めという状況は変わらぬものの、もう一つの規制区間である日田市天瀬町・下岩戸トンネル付近【杖立温泉のすぐ下流】は7月15日17時から片側交互通行可能になりました。これにより、乗用車は広域農道「スカイファームロードひた」(市道)と県道12号天瀬阿蘇線の一部を使って松原ダム付近の梅林湖畔に出て、開通区間の先にある杖立温泉に行くことが可能になりました。

余談ですが、梅林湖で杖立川と合流するのが津江川です。文字は違いますが、同じ「つえ」なのでしょう。
こちらの上流は下筌(しもうけ)ダムによる「蜂の巣湖」になっています。この名は 1959年ダム反対運動目的の監視小屋・「蜂の巣城」に由来しています。マクベスを戦国時代に翻案した黒澤映画は「蜘蛛巣城」。
「津江川」から思い出すのは2002年サッカーワールドカップでカメルーンのキャンプ地になった「中津江村」。落書き帳過去記事が多い有名村も日田市の一部になりました[21428]

それはさておき、大型車迂回路は、国道210号→大分県道12号→日田広域農道【スカイファームロード】→熊本県の小国広域農道→国道387号と結んだものです。

黒川温泉行き高速バスが停車する「ゆうステーション」があるのは、熊本県阿蘇郡小国町大字宮原(みやのはる)。1984年までは宮原線【久大線の支線】の終着駅がありました[90675]。東西に走る国道387号が 南北に走る国道212号と交差する少し東で、ここから212号を北上して県境に到達した地点が杖立温泉です。

宮原線は終着駅・肥後小国の先、どんな計画があったのか? 1922年の改正鉄道敷設法[79718]別表第113号
佐賀県佐賀ヨリ福岡県矢部川、熊本県隈府ヲ経テ肥後大津ニ至ル鉄道 及隈府ヨリ分岐シテ大分県森附近ニ至ル鉄道
最初の区間は佐賀線でした。矢部川=鹿児島線の瀬高【みやま市】から先を延長して豊肥線肥後大津を結ぶ線の途中、隈府【菊池市】から分岐して久大線豊後森付近の恵良に至る線の一部が宮原線だったのでした。
最後は、またも「杖立への道」と関係ない余談になってしまいました。
[91213] 2016年 8月 15日(月)12:39:47【3】hmt さん
海と島 (28)大きな無人島
[91212] 白桃さん
「面積1km2以上の無人島」ってあるのでしょうか?

過去記事[33529][85822]を参考に 上位と思われるものを列挙し、再検討してみました。
その結果によると、事情はそれぞれ異なるが、馬毛島や野崎島は 現在は再び有人島化したようです。

島名面積km2所在地コメント
渡島大島9.74北海道松前町[15328][23960]の29
馬毛島8.17鹿児島県西之表市島を手に入れた企業が有人島化 その狙いは?
兄島7.88東京都小笠原村世界遺産になる前は空港計画があった
大黒神島7.30広島県江田島市[29879][33494]黒い噂
野崎島7.11長崎県小値賀町[89994]他多数 現在は管理人が定住し宿泊できる有人島らしい
春国岱6   北海道根室市[85822]
屈斜路湖中島5.81北海道弟子屈町
枝手久島5.79鹿児島県宇検村奄美群島 開発計画
北硫黄島5.56東京都小笠原村[79266]
弟島5.20東京都小笠原村墓や小学校の門など定住遺跡あり
洞爺湖中島4.84北海道壮瞥町、洞爺湖町遊覧船で行ける
鳥島4.78東京都(市町村なし)[18943][22460]
南硫黄島3.54東京都小笠原村[74102]

なお、下記のようにまぎらわしい存在の島もあります。

硫黄島は 23.73km2もある大きな島で、戦前は1000人以上の人が暮らして賑わった島でしたが[56162]、現在は火山活動のために一般人が定住することはできません。
 # 火山と言えば、一時的な避難でしたが、三宅島 55.21km2も無人化した時がありました。
しかし、硫黄島には海上自衛隊員が常駐しています。つまり「住民がいない有人島」です。
南鳥島 1.52km2も 同様に海上自衛隊員が常駐しています。南鳥島には気象庁職員も常駐。

これに対して、「人がいる無人島」もあります。
広い意味では、住民基本台帳の住所を有する居住者も、国勢調査の常住者もいない島が「無人島」として扱われると思います。
しかし、居住者・常住者に限定して有人・無人を区別することにすると、「定住していない通勤者や旅行者」がいっぱい居るのに「無人島」という事例が たくさん出てしまいます。
その代表が「民間空港島」なのですが、その他の事例も含めて [86161]で例示しておきました。
[91185] 2016年 8月 11日(木)19:10:50hmt さん
国民の祝日「山の日」
[85642] ピーくん さん
平成28年から8月11日を「山の日」となります。
…というわけで、本日が記念すべき?第1回の「山の日」。

上高地で開かれた全国大会には 皇太子さまが 家族連れで出席されたとのことです。NHK News Web

20年前に国民の祝日になった「海の日」は、東北地方巡幸の明治天皇が海路で横浜に帰港した明治9年(1876)7月20日に因むもので、1941年制定の「海の記念日」からでも75年の歴史があります。

「山の日」制定の動きは 国会では 2013年からのようで、上記のように 2014年に早くも改正法成立。

全国大会が開かれた日本アルプスが 日本を代表する山であることに異論はありませんが、極論すれば山だらけの日本です。
…で、山地の割合が最大の都道府県はどこか? ちょっと気になりました。

都道府県データランンキング には まだ収録されていないようなので、日本統計年鑑を見たら、「都道府県,地形・傾斜度別面積)」という表がありました。

昭和57年の調査によるデータですが、そんなに変わるものではないので これでよいでしょう。
山地、丘陵地、台地、低地、内水域等の5種に分け、47都道府県ごとの面積がkm2単位で示されています。
この5分類の面積を合計した値を都道府県ごとの総面積と考え、これに対する比率を求めます。

ところが、「内水域等」に問題がありそうです。
北海道の 5,367km2には 北方領土 5033km2が未分類のまま含まれているので、実質 334km2。
そこで、北海道だけは 北方領土を計算から除外することにしました。

滋賀県や茨城県の「内水域等」面積が大きいのは当然ですが、県内の比率を求めると、なんと大阪府が17.9%で 滋賀県の14%を上回ります。東京都、長崎県、愛知県も茨城県の4.8%を上回ります。
離島や埋立地の扱いに問題があるのではと疑いましたが、よくわかりません。

このように未解明の点があるデータですが、本題の山地面積に関しては、おしなべて比率の大きいことでもあり、妥当な数字が出ているだろうと考え、以下のように「山地の多い県」ランキグングを作ってみました。

全国で山地比率が最大になった県は 鳥取県の 87.2% でした。
以下、2 高知県、3 山梨県、4 長野県、5 愛媛県、6 和歌山県、7 奈良県、8 徳島県、9 広島県、10大分県、11 岐阜県、12 群馬県、13 熊本県、14 福島県までが 75%以上。全国平均は 61%です。

上位の県の多くは、国民の祝日制定前から、県独自の「山の日」を作っていました。
こうち山の日【11月11日】、やまなし山の日【8月8日】、信州山の日、えひめ山の日【11月11日】、紀州山の日【11月】、奈良県山の日・川の日、ひろしま山の日、ぎふ山の日【8月8日】ぐんま山の日【国民の祝日制定後に廃止】

16位の静岡県は富士山の日、34位の香川県が かがわ山の日【11月11日】、41位の大阪府が おおさか山の日【11月】。
そして 47位の千葉県は山地の割合が飛び抜けて少ない 7.6%で、対象は丘陵地でしょうが 里山の日があります。

歴史的な日付に因むものではないので、山の形をした「八」や樹木を象った「11」を用いた日が好まれているようです。
[91167] 2016年 8月 8日(月)18:11:12【1】hmt さん
それは黒船から始まった (4)外国人居留地
[65167] Issieさん
【修学旅行の目的地としての】横浜が 中華街だけとは,大変さびしい。

横浜を訪れて学ぶべきことは多いわけですが、幕末の開港に始まった「外国人居留地」。
中華街を通じて「外国人居留地」が存在した過去を学ぶのも大切なので、このシリーズに取り上げます。

ご存知でない方も多いと思いますが、「租界」(そかい)という言葉がありました。大辞林の説明。
19世紀後半から解放前の中国の開港場で、外国人が行政権と警察権を握っていた地域。

現在の学校では どのように習っているか知りませんが、同じ19世紀後半(幕末)の開港から、明治の条約改正[54388][62517]までの間(1859~1899)、上海など中国の都市の「租界」と同様に「外国の領事裁判権を認めていた地域」が 日本にも ありました。それが「外国人居留地」です。
外国人居留地は、開港場「五港」である 横浜・神戸・長崎・箱館(箱館は有名無実、新潟には設けず)の他に、「開市」した東京(築地)・大阪(川口)にも存在しました。

横浜居留地を示しておきます。
明治30年の地図【クリックで拡大】を見ると、 外国人居留地には 官有地・民有地と異なる色分けがされており、特殊地帯であったことが明らかです。
山下居留地という文字付近の南京町【現在の中華街】に隣接した三角形の官有地にも注目してください。
現在の地図と照合すれば すぐにわかりますが、加賀町警察署[57730]です。

言うまでもなく清国は領事裁判権を持つ国ではありませんが、清国人も居留地の住民でした。居留地内に出入りする日本人もいました。領事裁判権は認めるとしても、外国人居留地は 当然 日本の警察権を行使する地域です。
加賀町警察署の位置は、このような複雑な状況に対応するものであったのでしょう。
多数の中国人が住むようになった事情は[65179]に記しました。南京町という呼び名は長い間使われてきましたが、戦後に犯罪多発地のイメージを一掃する目的もあり、横浜中華街として再生しました。

山下居留地の30ヶ町。[65183]では明治19年の資料に基づいて山下居留地の29町名を紹介しました。
横浜市中区史地区編 第3章山手・山下地区 の11/88コマによると、花園町を加えた30ヶ町は 明治12年1月に命名され、加賀町警察署の他に薩摩町バス停、電話線の支線名に現存しているそうです。

関内の街路は基本的に海岸線基準の碁盤目(並行と直交)ですが、中華街だけは 東西南北の正しい碁盤目なので話題になりました。下記 中国の学者の発言は [65181]にリンクされています。
中華街は斜めではない。斜めなのは周りのほうだ。

この向きは、開港のひろば99号 図2に示されているように、開港より前の嘉永4年の水田畦道に遡ることが確認されています。「横浜新田」の造成時からとすると文化年間(19世紀初期)でしょう。海岸線基準の「周りの道路」は 1858年以後。
文久2年(1862)に幕府の工事が行なわれ、水田は居留地に造成され、街路も整備されました。しかし実務(高低差や補償の処理)を考慮し、農地の形は 街路の向きとしてそのまま残されたようです。「風水に基づいて中国人がこの土地を造成した」という都市伝説は否定されるが、風水の観点から優れたこの地は中国人に好まれ、中華街になった。開港のひろば100号は、このように伝えています。[65180][65183]

話が江戸時代の横浜新田造成に及んだ機会に、横浜の土地造成に少し触れておきます。
横浜市中区史地区編 第1章素顔の中区 の13/49コマによる概況。
明暦2年-寛文7年(1656-1667) 吉田新田 約120ha 江戸の商人吉田勘兵衛(最初の名は野毛新田)
宝暦-天明年間(1751-1788)  隣接の西区の区域に尾張屋新田、宝暦新田、安永新田、藤江新田
天保4年-10年(1833-1839)   岡野新田、平沼新田
文化年間(1804-1818)     横浜新田
嘉永年間(1848-1853)     太田屋新田【現在の関内】 三河出身の商人太田屋徳九郎
明治初年(1868-1871)     野毛浦【現在の桜木町付近】

地図があった方がよいですね。
[65182] Issieさん
こちら は個人のページのようですが,横浜開港以前の地図(横浜村外六ヶ村之図)が掲載されています。
小さくて見えにくいけれど,「横浜新田」と書かれているところが,今の中華街ですね。

現在の地図とほぼ逆向きで、北北東にある海を下に描かれていますが、「横浜村外六ヶ村」を数えてみます。
半島状をなす「横浜村」の南に「横浜新田」。その右(北西)の「太田屋新田」は まだ水面状態。
図の中央部は左の中村川と右の大岡川との間に大きく描かれているのが「吉田新田」で、一部は派大岡川を隔てた太田屋新田と同様の水面状態です。
大岡川の左(西)には「太田村」があり、大岡川の河口・左岸には「野毛浦」があります。現在の桜木町付近。

これに、図の右側・緑色の野毛山のある「戸部村」と、中村川右岸沿いの「石川中村」とを加えると8ヶ村になり、「横浜村外六ヶ村」より多くなってしまいます。水面だけの太田屋新田はノーカウント?

この地図の出典は記されていないのですが、前記開港のひろば99号図2と似ており、『横浜村並近傍之図』(横浜市中央図書館)に基づいて模写したものではないかと推察します。
[91105] 2016年 8月 5日(金)18:16:42hmt さん
それは黒船から始まった (3)神奈川と横浜
ハリスによる日米修好通商条約の第3条には、ペリーの時に開いた下田・箱館以外に開く4港【神奈川・長崎・新潟・兵庫】とその期日が記されています。最初の開港場は神奈川と長崎で、期日は条約調印から約15ヶ月後の 1859年7月4日。期日は米国独立記念日でしたが、実際は最恵国条項にもとづき 7月1日に開港しました[54351]。安政6年6月2日は 旧暦の日付ですが、何故か6月2日が現在の横浜開港記念日に採用されています。

それよりも問題なのは、開港を約束した「神奈川」の解釈です。
オランダ・中国との限定貿易時代からの窓口・長崎は ともかく、江戸に近い東海道の宿場町である「神奈川」に外国の商人が来て 一般の日本人と接触する。それにより 問題が起きたらどうするのか?
 
日本側は トラブル回避のために、東海道筋から外れた横浜村を神奈川の一部であると解釈して、ここを開港地とすることを画策しました。しかし、ハリスら外国側は 長崎の出島貿易の再来になることを心配し、神奈川宿付近に領事館を設けてこの動きを牽制しました。参考

両者の駆け引きはありましたが、条約発効を前に幕府は横浜村での開港場建設を開始し、既成事実化しました。結局のところ、水深の深い横浜を貿易港とする利点に 外国側も納得し、横浜開港の運びとなりました[65179]

万延元年(1860)になると、幕府は中村川から海岸までを直結する長さ580間の堀川を開削[54352]。元町・中華街駅は、堀川の地下を横断しています。
これによって居留地は、北を海、西を大岡川末端部の内海、南西を派大岡川、南東を堀川に囲まれた「出島」状態になり、派大岡川の大岡川への合流点の南側にある吉田橋などには木戸門と見張番所が設けられました。
このような関門に囲まれた内側が「関内」、外側が「関外」です[54351]
条約には「居留地の周囲に門墻を設けず出入自在にすべし」とあります。番所は日本人用で、外国人については出入自在ということなのでしょう。

「神奈川県横浜市神奈川区」というように、地名としての神奈川と横浜とは入り乱れています。
これは元々は狭域地名[6474]だった両者が、時代の流れの中でそれぞれ広域地名化してしまったことに由来します。

最初に示すのは、明治7年に水路局が発行した 海図 YOKOHAMA BAYです。
図の下方に象の鼻を中心とした開港場・横浜の市街地が描かれています。街路は海岸線に従った約40度の斜め方向ですが、中華街だけはほぼ正しく東西南北を向いています。その左の白地には外国人居留地の文字もあります。『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の遊郭[54351]は 現在の横浜公園付近にありました。

大岡川河口部の内海は既に埋め立てられ、そこに開業後間もない(初代)横浜駅があります。
現在の桜木町駅ですが、その西側には野毛山・掃部山が迫っています。掃部山の県立青少年センターには神奈川奉行所跡の碑があります。
この神奈川奉行所[54388]は 慶応4年3月19日に新政府軍に接収されて横浜裁判所[75497]になりましたが、翌月には神奈川裁判所と「神奈川」の名が復活しました。
3月に横浜裁判所を名乗りながら翌月には神奈川裁判所という朝令暮改ぶりから、“開港場は横浜”と認識していた日本の新政府が、前政権が締結した条約の手前、対外的には“ここは神奈川”で押し通さなければならないことに気付き、慌てて改名した事情を読み取ることができます。[20917]
慌ただしい改称はその後も続きましたが、神奈川府を経て明治元年9月21日 神奈川県 で落ち着きました。
「県庁は横浜にあるのに神奈川県」という ねじれ現象は現在まで続いています。

なお、初代の神奈川県庁舎は明治15年に焼失、2代目は明治末期に解体。「キングの塔」で有名な4代目庁舎は、関東大震災で倒壊した3代目庁舎の後に 1928年完成したもの。開港のひろば88号
知事が執務する現役の庁舎としては、1927年竣工の大阪府庁本館に次いで全国で2番目に古いものとか。なお、群馬県昭和庁舎[55438]も 1928年の建築で、分館として使用されているようです。

庁舎のことはさておき、県名の由来「神奈川」という地名は、海図の北の方に見えています。
江戸日本橋から 1品川・2川崎と上る東海道3番目の宿場町でした。
明治末期の地形図を見ると、右上に「かながは」駅が見えます。現在の横浜駅のすぐ近くで、少し前の1901年に橘樹郡神奈川町から横浜市に編入された後でした。

昔からの郡名を調べると、東海道筋の宿場は 2川崎・3神奈川・4保土ヶ谷と武蔵国橘樹郡が続いた後、5戸塚で相模国鎌倉郡に入ります。 久良岐郡横浜は明らかに陸路の本筋から外れています。
このような横浜の位置が、鉄道の時代になってから、スイッチバックやら直通線やらを必要とした原因になったのでした[49808]

地名として全国に知られるようになった村名「横浜」とは対照的に、郡名「久良岐」は忘れられた地名になっています。調べたら久良岐橋がありましたが、中村川の上を通る高速道路の橋のようです。新吉田川が大通公園になる前は「川の十字路」でした。

また話が逸れてしまいましたが、明治末期の地形図に戻ります。明治7年の海図から30年以上後なので、陸地化が進んでいますが、それでも現在の横浜駅の西側には大きな内海が残っていました。
現在の地名では大部分が西区で、帷子川に近い南側が南幸、北側が北幸。この付近は内海橋名も残っている かつての岡野新田でした。

大まかに言えば、東海道【赤線】と横浜道【緑線】とが昔の海岸沿いです。
神奈川駅の先、弧を描く埋立地を初代横浜駅目指して進む鉄路の西端付近に 萬里橋[79942] の文字が見えます。
横浜オフ会では横浜駅から2代目横浜駅へのルートとして 万里橋経由が予定されていましたが、本隊から遅れた私が実際に渡ったのは帷子川の河口の築地橋でした。

万里橋については [49808][82973]で Old Map Roomを引用して説明していました。それによると、明治24年の 1:20,000地形図 など各時代の地形図が掲載されていたのですが、現在では残念ながらアクセスすることができません。

それはさておき、幕府が横浜開港に伴って設置した役所の名が何故「神奈川奉行所」だったのか?
条約での約束「神奈川を開港する」と辻褄を合わせるためとしか考えられません。
神奈川/横浜と同じように「兵庫を開港する」と約束して開港した神戸とペアにしたシリーズを書いたのは 10年前でした。[54297][54430]
[91104] 2016年 8月 5日(金)18:05:22hmt さん
それは黒船から始まった (2)1854年のペリー条約 と 1858年のハリス条約
さて、ビッドルから7年後のペリー。今度は清国に行く ついで というわけでなく、日本について本格的に研究し、フィルモア大統領の国書も携えた正式の使節です。

ペリーの黒船艦隊は有名ですが、太平洋を越えて日本にやってきたわけではありません。19世紀中頃の米国は 米墨戦争(1846-48)【墨西哥=メキシコ】により手に入れたカリフォルニアで金鉱が発見された頃です。サンディエゴに海軍基地ができたのは ずっと後の1907年でした。ホノルルも1900年まではハワイ王国でした。

経路はビッドルと同様に喜望峰経由。出港地は東海岸の海軍基地・ノーフォーク。[15871]太白さん
上海で4隻が集結した後、日本本土に先立ち琉球王国を訪れ、更に小笠原諸島を訪れました。これは日本遠征の目的が開国だけでなく、捕鯨基地の確保もあったからで、これについては[78654]で言及しています。

嘉永の浦賀来航は 4隻のうち2隻が蒸気軍艦。日本のことをよく研究し、大統領の国書も持参した米国の態度に接し、会見した浦賀奉行も相手が本気であることを実感したのでしょう。
12代将軍徳川家慶が病気中で【ペリー退去後、間もなく死去】、受け取った国書の返事は翌年までと先送りしたものの、「阿部政権」の対応もビッドル来航の時とは変わらざるを得ません。

「品川台場」[80264]を築造し、急拵えながらも、翌年には数を増して再来航し 江戸湾に入った米国艦隊に対し、辛くも日本の「海防体制」を示すことができました。

1854年の日米和親条約締結については [77711]に記しましたが、条約調印の場所に 江戸から少し離れた横浜が選ばれた背景には、品川台場の威嚇効果も多少は寄与していたのかもしれません。
林大学頭らの日本側全権との協議が行なわれた応接所は、神奈川宿の対岸にある砂洲の上の漁村、武蔵国久良岐郡横浜村に作られ、これが横浜の初舞台になりました。
アメリカ側の 武力を見せつけながらの協議を経て、嘉永7年(安政元年)3月3日(1854年3月31日)に、横浜村で 日米和親条約(日本国米利堅合衆国和親条約[1805])が締結されました。

でも、この時に開港したのは下田と箱館の2港だけで、条約を結んだ横浜を開港したわけではありません。
下田には米国領事館を置くことを認めたものの、自由貿易を認めたわけでもありません。日米両国が「和親」状態になったと言っても、米国捕鯨船【石油以前には鯨油ランプが使われていました】への食料・水・石炭[61271]などの補給基地として、遠隔地の港への入港を認めるという程度の段階でした。

次の大きなステップは 安政5年で、この年に実質的な開国への道が開かれました。
日米が「修好」だけでなく「通商」段階に進むのは、和親条約によって交渉の座を確保し 安政3年に来日したた米国総領事タウンゼント・ハリスの仕事でした。武力に訴えて清国と争っている英仏が日本に襲来する前に、友好的な米国との間で通商条約を締結する利益。これがハリスの強硬の主張の骨子で、消極的な態度の幕府を説得しました。その成果が 日米修好通商条約です。

ポイントであるアヘン輸入禁止条項はどこに記されているのか? 
日本開きたる港々に於て亜米利加商民貿易の章程第二則の末尾近くに、次の言葉がありました。
阿片の輸入厳禁たり 然るに密商し又其事を謀る輩は阿片一斤毎に15ドルラルの過料を日本役所に納むべし

条約調印は 安政5年(1858)6月19日 アメリカン・アンカレッジに碇泊した軍艦ポーハタン号の上で行なわれました。現在の横浜市金沢区八景島付近の海上です。

余談ですが、このポーハタン号は最大級の蒸気外輪軍艦でした。既に嘉永7年の来航時に この碇泊地に投錨し、ペリーは旗艦をサスケハナ号からポーハタン号に変更しています。日米和親条約で開港した下田では、吉田松陰の密航を拒絶しています。
ポーハタン号は、日米修好通商条約批准書【署名者は もちろん孝明天皇ではなく、14代将軍徳川家茂です】交換に渡米する日本使節団[77630]を迎えるためにも使われました。この航海にはサンフランシスコまで咸臨丸が随行しました。

この条約の結果 開港場になったのが 神奈川・兵庫・長崎・新潟・箱館 、総称して「五港」[51062]です。

…とは言っても、通商条約の調印と開港とが、すんなり実現したわけではありません。

最初のハードルは「勅許」問題でした。
17世紀以来 国政を任されている江戸幕府が 今更「勅許」を求める というのも、考えてみれば 奇妙なことです。
そもそも【19世紀の造語ですが】「鎖国」を決めた 17世紀には、勅許など考えてもいなかった筈です。
天皇のお墨付きがあれば 反対派対策に役立つ という老中首座・堀田正睦【阿部正弘の後任】の甘い見通しが 裏目に出てしまった ということでしょうか。

それはさておき、堀田の上洛中に 政権の実質トップとして 大老職に就任したのが 彦根藩主の井伊直弼です。

もともと開国に消極的だった井伊直弼が、勅許を得ないまま 「日米修好通商条約」を結んだ政権のトップ【注】になってしまったのは、歴史の運命でしょうか。政権運営に反対する浪士たちに桜田門外で襲われ、落命したのは 安政7年=万延元年(1860)3月3日でした。
日米条約に続いて、日蘭・日露・日英・日仏条約も締結されました。総称して「安政の五ヶ国条約」と呼びます。
「安政の仮条約」という呼び名は、誰が言い出したのか知りません。もちろん「仮に結んだ約束」という言い訳が国際的に通用する筈もなく、後の明治政府は 条約改正[54388]で苦労することになりました。
【注】
幕府の形式的なトップは、言うまでもなく 13代将軍徳川家定[80264]ですが、条約調印 約半月後に死去。
[91103] 2016年 8月 5日(金)17:47:50hmt さん
それは黒船から始まった (1)開港への序章
落書き帳オフ会番外編が横浜で行なわれました。
1854年まで無名の小漁村だった横浜が歴史にデビューした舞台。それは 黒船艦隊により浦賀に来航して開国を求めたペリーが、翌1854年再来して幕府との間で結んだ 日米和親条約でした。

でも、横浜にとり決定的に重要な転機となったのは、領事として下田に赴任してきたハリスとの交渉により結ばれた 日米修好通商条約 に基づく開港でした。その日付は安政6年旧暦6月2日[28611]

この1859年から 150周年にあたる 2009年に開催された博覧会の愛称は「開国博Y150」でした。
横浜での地方博覧会であるため、「日本開国150年」よりも「横浜開港150年」に重点が置かれた催しであったようです。実際、「開港博」と誤記されることもしばしば。[70310]

それはさておき、横浜オフ会を機会に hmtマガジンに横浜の記事を集め、開港場という特殊な地位から始まり 約160年の歴史を刻んだ横浜の姿を概観するシリーズを書いてみたいと思いつきました。

いまさら言うまでもないことですが、横浜の地理的特徴を一言で言えば「首都に近い港」であり、歴史的にも海外の諸国と接触する海運の拠点としての役割を果してきました。
外国人居留地、生糸の輸出、赤レンガ倉庫などのキーワードが思いつきます。かつての横浜は、華やかな客船を主役とする「日本の表玄関」でした。

時代と共に状況は変り、特に東京港の開港と空路の発達は、横浜に大きな影響を及ぼしました。
しかし、 横浜港自体は 健在です。そして、造船や鉄道貨物施設の跡地が「みなとみらい」地区へと生まれ変った横浜は、首都圏内の大都市として機能しています。

1853年の浦賀、その翌年の横浜に登場する主役は 米利堅合衆国水師提督【東インド艦隊司令官】マシュー・ペリーが率いる「黒船艦隊」でした。木造船ですが黒色塗装を施した外国軍艦は、白木の船だけを見慣れた目には異形の印象を与えたのでしょう。
それよりも日本人を圧倒したのは、旗艦「サスケハナ号」など一部の船が蒸気機関で外輪を駆動することで、黒船4隻が帆走せずに進む姿【曳航も併用】を見せ付けたのでした。まさに米国では「Steam Navyの父」と呼ばれたペリーの面目躍如です。

実は 米国からは ペリー艦隊よりも前に 帆船2隻のビッドル艦隊が派遣されています。
アヘン戦争(1840-1842)でイギリスに敗れた中国(清国)は、1844年に米国との間にも修好通商条約を結ばされており、ビッドルはこの望厦条約の批准書だけでなく、清国駐在の米国公使への対日外交折衝開始指令書も持参していました。既に公使は帰国後でしたが、ビッドルは条約締結の希望を伝えるために、弘化3年(1846)マカオから浦賀に来航しました。

日本側は 前年に老中首座が水野忠邦から阿部正弘に変った政権交代の後でした。国民の大多数は知らないことでしたが、政府当局は 阿蘭陀風説書【長崎出島のオランダ商館長による海外状況報告書】や、1844年のオランダ国書による忠告[77711]により このような海外情勢について、ある程度の知識を得ていました。

「阿部政権」のこの時の対応は、従来の拒絶姿勢を変えずに当座をしのぐというものでした。
正規の交渉権限を持っていなかったビッドルも 薪水・食料など提供を受けて引き下がりました。
間違いによるトラブルが発生しかけたが、大事には至らず。

横浜が歴史に登場する前も含めて、若干の予備知識を 開港への序章 として記してみました。

蛇足
米利堅(メリケン)という言葉は、嘉永7年に結ばれた日本国米利堅合衆国和親条約[1805]のタイトルに使われるなど、戦前には広く使われていました。
もっとも、この事例「米利堅合衆国」は 法令全書が編纂された明治20年頃の用法と推察します。
幕末の本文では「亜墨利加合衆国」となっています。

落書き帳内では「アメリカ」を意味する用例は少数で、最も多い使用例は神戸のメリケンパークで7件でした。

私の記憶に残っているのは、国産の「うどん粉」と異なる高品質の小麦粉を誇示する「メリケン粉」という言葉でした。真っ白で細粒の小麦粉。家庭でケーキを焼く薄力粉が主だったように思います。参考
なお、食用とは無関係の「メリケンを食らわせる」という用法もありました。参考
[90716] 2016年 7月 22日(金)15:11:36【1】hmt さん
Re:消滅市
[90709] デスクトップ鉄さん
「与野」の名は さいたま市の行政区に残されていません。
なお、与野市の区域を事実上引き継いでいる行政区は、さいたま市中央区です。

【追記】
過去記事を検索したら、こんな記事がありました。
[232] グリグリさん
制令都市になった場合、区割りはどうなるのでしょうね。与野区は間違いないように思いますが、浦和、大宮の名前は復活するでしょうか。浦和東区、浦和西区、浦和北区、浦和南区。なんか、JRの駅みたいですね。浦和武蔵区なんてのもできたりして(笑)。

ところが、区名選定委員会が選んだ最終案は かなり意外なものでした[3440]。与野市を主とするE区については、大方の予想や公募結果[1911]・市民投票[3353]で最有力と思われた与野区でなく、中央区でした[3438]
TNさんの記事[3485]が、舞台裏の事情を語っているようです。

それにしても、さいたま市の区名問題では 合併資料室に4つ、新区名で3つ、合計7つものアーカイブズが作られており、当時の熱気が推察されます。
見沼区と共に、中央区も話題を集めており、[10093]など未収録記事も多数あるようです。

最後に、本筋の「消滅市の残影」に戻り一言。
京浜東北線が停車する与野駅は東北本線に存在しますが、その所在地は旧・浦和市でした。現・さいたま市浦和区。
旧・与野市の残影を伝える駅名としては、さいたま市中央区の与野本町駅等3駅【埼京線が停車】を挙げた方が適切かもしれません。
[90688] 2016年 7月 12日(火)19:33:31hmt さん
海と島 (27)香川県の島
[90684] 白桃さん
香川県の有人島の人口(2010年国勢調査)です。結構、謂れのある島が多いです。
今では島ではなくなりましたが、屋島、瀬居島、沙弥島にも人は住んでいます。

今更なのですが、屋島も昔は「島」だったことを再認識しました。
正直なところ、日本の島 約500を選んだ時[86275]にも、全く念頭にありませんでした。
1968年の番の州埋立で 四国本土の一部に取り込まれた 沙弥島・瀬居島[86062]は hmtが選んだ「島list500」に含めています。人工島や本土と地続きになった島でも社会的に重要な地位を占める「島」はできるだけ対象に含めるという趣旨で桜島なども含めたのですが、屋島は考えていませんでした。
屋島を四国本土から隔てていた海。完全に陸地化した現在との間には、塩田時代もあるのでしょうか?

それはさておき、[86275]に記した趣旨で選定した 「島list500」 の集計表を、5大島・離島(47都道府県別)・北方領土の 順に示した集計表が作ってあるので、示しておきます。[86311]
香川県を見ると島の人口 38257 となっています。[90684]との差は 沙弥島96+瀬居島763。有人島数27は この2島の他に備考に記した井島の一部を算入していますが、石島の香川県部分【井島】は無人です。

データがあるので、香川県の島面積を島群別に集計しておきます。面積単位はkm2
小豆島と付属島:小豆島153.35+沖之島0.19+小豊島1.09+豊島14.50=169.13
直島諸島:井島1.82+直島7.82+向島0.74+屏風島0.12+牛ヶ首島0.33=10.83
高松市:大島(庵治大島)0.69+男木島1.38+女木島2.68=4.75
備讃瀬戸:櫃石島0.93+岩黒島0.17+与島1.10+小与島0.26+瀬居島0.91+沙弥島0.28=3.65
塩飽諸島:牛島0.84+本島6.77+広島11.66+手島3.41+小手島0.53+高見島2.33+佐柳島1.83+粟島3.68+志々島0.59=31.64
燧灘:伊吹島1.05
合計:28島 221.05km2【[86311]には算入していなかった元々の瀬居島・沙弥島面積を加えました。】

大部分の島は離島振興対策実施地域に指定されています。
具体的には、本土と地続きの瀬居島・沙弥島、無人の井島、近年無人になった牛ヶ首島の4島を除く24島で、自治体・面積・人口を含む一覧表になっています。
地域名は普通の用法と少し違う場合もあるようなのでご注意ください。

実は、離島指定基準は1964年以来約半世紀ぶりの 2013年に見直しが行なわれ、小豆島などが新指定されました。
国立療養所[90684]のある大島(庵治大島)も この際に検討されたのですが、船便や就業者数の多さから広島県厳島と共に指定が見送られたと伝えられ【出典】、[85202]でリンクした当時の最新版一覧表も そのようになっていました。
ところが今回確認したところリンクが切れており、再検索して得た上記平成27年7月13日現在の一覧表では大島が指定されていました。再見直しがあったようです。

…というわけで、離島振興法の有人離島数ランキングで、香川県は、堂々全国第3位の離島県でした。
長崎県51 愛媛県32 香川県24 山口県21 鹿児島県20 岡山県16 広島県13 宮城県9 東京都9 福岡県8

オヤ? 沖縄県がない… と思ったら、沖縄39島、奄美8島、小笠原2島は別の法律でした。[85802]

有人離島の数ではなく、都道府県の面積に占める 島嶼部の割合[85769]
沖縄県46.2% 長崎県44.4% 鹿児島県28.3% 東京都18.2% 熊本県11.8% 香川県11.3% 兵庫県7.3% 愛媛県7.0%

都道府県の人口に占める 島嶼部の割合[86311]
長崎県13.64% 鹿児島県10.99% 沖縄県9.64% 熊本県7.08% 広島県4.56% 山口県4.17% 香川県3.84% 島根県3.59% 兵庫県3.27% 新潟県2.66% 愛媛県2.60%

[90684]
男木島 高松市 162 かつては女木島とともに雌雄島村

昭和合併最終日[88364][73411][90105]に高松市に編入するまで存在したのですね。香川県香川郡雌雄島村
読み方が気になったので調べてみました。
しおじま メオシマ シヲジマ
昔は「雄」を「お」と読んだようです。

村の名を伝えている雌雄島海運のフェリーの名は「めおん2」 ですが、Wikipediaによると男木小学校の児童による命名だそうで、昔の村の呼び名に基づくものではないようです。
Wikipediaは しゆうじまむら となっています。

村が消えて60年も経てば、船会社の名を普通に読む「しゆうじま」が広く通用するようになってしまうのでしょう。
[90660] 2016年 6月 30日(木)10:21:07hmt さん
変遷情報あれこれ (11)1918/2/1 「自治体でない旧村」との 合併? により誕生した室蘭区 
[90655] グリグリさん 市区町村の変遷 開発記録(未処理:11件/未使用:6件)
[90657]で記した 未処理事例に続き、今回は 6件が残された 未使用事例を題材とします。

実は 受取先のなかった市区町村(6件)の意味が よく理解できませんでした。
例えば東京市と榑橋村との関係。東京市から開始して変遷情報内を過去に遡ろうとした場合、「東京市時代には練馬区が存在しなかった」ために榑橋村に到達できず、未使用で残った。最初は、そのような意味かと思いましたが、この解釈は違っていたようです。

東京市の変遷 を見ても、1891年の大泉村新設に関係した自治体として、埼玉県榑橋村の名は記録されています。
「受取先」とは榑橋村そのものではなく、ピンク地で示された町村制施行前の旧村のことではないか?
やっと気がついて確認してみたら、1889/4/1埼玉県の記録が未使用でした。未使用になった原因は 県境の壁 らしいと分かり、納得。

それはさておき、今回の主役は
室蘭市<室蘭区<北海道輪西村など3村 です。

1918/2/1 の 室蘭区(新設/区制) に伴う変遷情報の表記については、過去記事で議論がなされています。

発端は [67215] むっくんさん の記事です。変遷情報記載に関する将来的な問題点指摘を含むので、少し長いですが そのまま引用しておきます。
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279 1918.02.01 区制 室蘭区 室蘭郡 室蘭町
は正しくは
1918.02.01 区制 室蘭区 室蘭郡 室蘭町, 輪西村, 千舞鼈村, 元室蘭村
ではないでしょうか。
参考:郡市町村廃置分合表(大正3年1月1日-大正7年12月31日)(編著・出版:内閣統計局、大9)5コマ、室蘭市HP(PDF)1コマ
#室蘭町には北海道一級町村制が既に施行されていますが、輪西村, 千舞鼈村, 元室蘭村の3村は未だ町村制が施行されていない地域です。そのため、将来的に北海道においても市区町村変遷履歴情報市制町村制施行時の情報に分離して記載するとき、記載方法にどのように記載するのが良いのやら。。。
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これに対する88さんのレス[67671]
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■T7(1918).2.1付け室蘭区 区制施行時の従前の町村について
「総覧」「便覧」・・・室蘭町
「幕末以降総覧」「辞典」・・・室蘭町,輪西村,千舞鼈村,元室蘭村
そもそも「総覧」「便覧」は、全国的に市制町村制施行以前の町村名はまったく記載されておりません。「辞典」は、ご丁寧に「非自治体の室蘭郡3村」とも書いてあります。
室蘭区区制施行の件は、内務省令?を確認できていないのですが、おそらく、ご紹介の郡市町村廃置分合表(大正3年1月1日-大正7年12月31日)(編著・出版:内閣統計局、大9)5コマ、室蘭市HP資料(pdfファイル)からも、室蘭町(一級町)と3村(非自治体)により発足した、と記述があると推測して間違いないでしょう。このため、室蘭町+3村と修正しました。
【上記[67215]の # 以下3行を引用し 】まさしく、心配していただいたとおりで悩ましいのですが、これはそのときまでにじっくり考えることとしたいと思います(つまりは「先送り」)。
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ここで修正入力された輪西村以下の3村は、[78865]むっくんさんの記事引用文で確認できます。
しかし、[78869]紅葉橋律乃介さんが「( )は紅葉橋が勝手に付けたものですが」と記しているように、未施行の“村”との合併(?)が記載されていることに違和感を抱かれた方もあったようです。
[79760]中島悟さんは、ストレートに「3村は旧村なので削ったほうが良いと思います。」と発言しています。

これらの経過を踏まえた上で、「まとめ」的な むっくんさんの発言[83624](5)がありました。
#現状では何もなされていません。[79760]中島悟さんの町村制未施行3村を削除する案もありますが、一応、町村制未施行とは雖も3村は自治体であるのでこの提案は現実的には難しそうです。
私見ですが、色で区別したり、詳細欄で対応するというのが現実的なところでしょうか。もしくは(2)【一級、二級などの区別を記載する提案】を実行して
73 1918(T7).2.1 新設/区制 室蘭区 室蘭郡 室蘭町【一級】, 輪西村, 千舞鼈村, 元室蘭村
の形で市制町村制施行時の情報の方に記載すれば、意外と問題がないのかもしれません。

ここに示されているように、せめて変遷情報詳細
「輪西村, 千舞鼈村, 元室蘭村は 旧村であるが便宜上掲載」
というコメントを付けておけば、「先送り」[67671]のツケが今頃になって回ってくることはなかったろう。
過去記事を掘り返しただけですが、これが私の感想です。

室蘭の旧3村と同様に、正式の自治体でないのに、変遷情報の「変更対象自治体名」に記されているのが、
岡山県藤田村 村制 の前身である 「児島湾干拓地第二区」です。

東京23区【前身35区+練馬区で36回登場】<東京市  もちろん頭に付いている語句のなせる悪戯です。

結局のところ、 榑橋村は別として 「未使用の市区町村」とは「市制町村制以降の正規の自治体」でないものでした。
[90657] 2016年 6月 29日(水)12:16:12【1】hmt さん
変遷情報あれこれ (10)1906/4/1 北海道当縁郡廃止
[90655] グリグリさん 市区町村の変遷 開発記録(未処理:11件/未使用:6件)

未処理として挙げられた11件のうち、 1906/4/1 の当縁郡廃止に係る変遷情報です。

根拠である明治39年勅令第23号 [63738] には 編入先の郡名だけが記され、村名が記されていません。
変遷情報詳細もこれに基づいて記載されていたので、受入側の情報がなかったというわけですね。

落書き帳には、[63736]紅葉橋律乃介さんの記事がありました。
当縁郡当縁村の西部・歴舟村・大樹村、広尾郡茂寄村→広尾郡茂寄村
十勝郡大津村・長臼村・鼈奴村・十勝村、中川郡旅来村、当縁郡当縁村の東部→十勝郡大津村

関係する変遷情報は、北海道二級町村制施行に関するもので、その詳細は次の通りです。
広尾郡茂寄村新設/村制
十勝郡大津村新設/村制

なお、十勝郡編入に関し、「広尾郡に編入」と誤記されています。

ついでに 他の9件についても 短いコメントを。
埼玉県新座郡榑橋村は、[90653]に記したように 1891年6月【日付不明】東京府大泉村新設。

東京府小笠原旧5村の取り扱いについては、過去記事がたくさんあります。
比較的新しい記事を挙げると、[85063] [85081] [85082]

東京都35区 
そのような自治体は存在しません。変遷情報詳細の自治体名を「東京都」に改めるだけでよいのではないでしょうか。

新潟県湯ノ谷村  湯之谷村の誤記。

鹿児島県大島郡 大島郡に「沖縄県及島嶼町村制」が施行される前の郡変更なので、○○村を削除。


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